2020.8.10 日本人のルーツを探る(32)
今回は高知県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
令制国では土佐国と呼ばれていた。
黒潮が流れる太平洋に面して「海」のイメージが強い高知だが、実際は山に囲まれ平地に乏しい。
南北朝時代の土佐国では、足利一門である細川氏が土佐国守護となる。後には室町幕府管領を輩出した細川京兆家が守護を兼ねる国となる。
「応仁の乱」がおこると細川勝元は東軍の中心人物となる。乱の余波は土佐にも及び、安芸・山田・本山・長宗我部・吉良・大平・津野ら諸豪が台頭する一因となる。
永正4年(1507)、管領を勤め細川京兆家の全盛期を築いた細川政元が暗殺される事件が起こる。その後の後継者争い(両細川氏の乱)で管領細川氏の権威は失墜し、これに代って阿波細川氏有力被官の三好氏が台頭してくる。
永正15年(1508)土佐一条氏の支援により岡豊城に復帰した長宗我部国親は周辺諸豪を滅ぼし、さらに本山氏を敗走させ勢力を拡大していく。
次の長宗我部元親の代には他の土佐六雄を次々服属させていく。
土佐国平定を成し遂げた長宗我部氏は織田信長と同盟を結び、四国制圧にむけて進撃を始める。
天正6年(1578)元親は阿波への入口である白地城を制圧、ここを拠点に讃岐国・阿波国の諸豪を攻めて降伏させ、天正8年には讃岐・阿波を掌握する。伊予国は毛利氏の援助もあり長期化するが、天正13年(1585)には四国制圧をほぼ成功させる。
しかし豊臣秀吉に10万を超える大軍で侵攻され、長宗我部方の諸氏は次々降伏し、元親も家臣の言を受け入れて降伏、土佐国のみを安堵されることになりる。
江戸時代になると。「関ヶ原合戦」で西軍に与した長宗我部盛親が改易となり、土佐一国は外様大名山内氏が治めることになる。
藩祖山内一豊は豊臣秀吉に仕えて近世大名に上り詰めまる。しかし、「関ヶ原合戦」前の小山会議では、諸大名を徳川方に導く発言で徳川方結束の功績を立てる。それにより土佐一国を与えられ近世大名として明治維新を迎えている。
城下町は高知市で、幕末には、坂本龍馬など多くの志士を輩出した。明治維新には板垣退助などが自由民権運動を起こし「自由は土佐の山間より」とうたわれるようになった。
また、中江兆民、幸徳秋水などの思想家、岩崎弥太郎などの実業家、牧野富太郎、寺田寅彦などの学者と、数多くの偉人を輩出している。
県名の由来は、土佐藩初代藩主の山内一豊が築城した河中山城の「河中(こうち)」が現在の県名である「高知」の由来である。では何故「河中」は「高知」に改称されたのだろうか。そこには水害をなくしたいという願いが込められている。
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