2020.8.13 日本人のルーツを探る(33)
今回は福岡県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
律令制における筑前国・筑後国の全域と、豊前国の一部に相当する。
中国大陸や朝鮮半島に近いという地理的条件もあり、先進的な文化・技術が入り、活発な交易は多くの富を生み出した。
そのため諸勢力が富を狙い、侵略と争奪の歴史でもあった。
南北朝時代の筑前国は、南朝方の少弐氏や菊池氏が守護職についたが、今川了俊が九州探題となると南朝勢力は衰退し、今川氏解任の後は再び少弐氏が守護職となる。
南隣の筑後国も南朝勢力に支配されたが、九州探題今川了俊により南朝方は衰退、その後は豊後の豪族大友氏が代々守護職に就任する。
福岡県東部をしめる豊前国では今川了俊の後、周防・長門の豪族大内氏が代々守護職に就任する。
そして応永2年(1395)九州探題今川了俊が解任され、戦国期を迎えると福岡県は大きく3つの勢力に分けられます。
主な勢力としては、筑前国には宗像大社の大宮司家である宗像氏(白山城)、糟屋郡の立花氏(立花城)、 筑前国守護の少弐氏、御笠郡の高橋氏(宝満城)・三池氏(三池山城)、怡土郡の原田氏(高祖山城)、夜須郡の秋月氏(古所山城)がある。
筑後国は豊後大友氏の支配力が強く、その幕下で国人領主が連合体をつくっていた。 それらの諸豪を「大身十五家」あるいは「筑後十五城」という。
豊前国も周防・長門の豪族大内氏の支配力が強くて、強大な勢力は生まれていない。麻生総理の先祖である麻生氏(花尾城)、北九州市の門司氏(門司城)・香月氏(畑城)・貫氏(貫城)・長野氏(長野城)、下野国宇都宮氏の分流である城井氏(城井城 豊前宇都宮氏ともいう)があった。
江戸時代には、県北西部の筑前国を福岡藩が、北九州の豊前国を小倉藩が、そして南部の筑後国を久留米藩が主に治めていた。
博多織や小倉織に代表される工芸品が盛んで多くの街道や港、水運が発達したことで、九州の交通において重要な地点となった。
明治時代には、福岡県の北部では鉄鋼や機械、電気、化学、窯業を中心とした北九州工業地帯が、南部では重化学コンビナートが形成される。
地名「福岡」は、かつて筑前国域を治めていた黒田氏が築城した福岡城(福岡城の由来は黒田氏ゆかりの備前福岡(岡山県瀬戸内市)に因むという説が有名だが、ゆかりの地としては関係が希薄なため、福崎の丘陵地に築城したため福岡城としたという説もある)と言われている。
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