日常細事2020


kiji

2020.8.16 日本人のルーツを探る(34)
今回は佐賀県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 律令制における肥前国の東部に相当する。明治の府県制成立で佐賀県と長崎県に分立した。
 戦国期以前、南北朝時代の肥前国は、南北朝期前半は幕府方の九州探題、南朝方の征西将軍宮、足利直冬の三勢力が鼎立する混乱期だった。 その後、北朝に帰順した少弐氏が守護職に就いたが、今川了俊が九州探題となると肥前国守護職を兼務し 南朝勢力は衰退し、今川氏解任の後は九州探題となった渋川氏が守護職となる。
 筑前少弐氏に敗れた渋川氏が衰退すると、周防・長門の豪族大内氏の勢力が進出してくる。 「応仁の乱」に乗じて、筑前少弐氏が肥前国東部へ勢力を広げるが、大内氏に敗れて減退する。
 大内氏は肥前守護代に千葉氏を任じ、肥前国を掌握する。
 戦国時代になると、少弐氏の被官であった国人領主龍造寺氏が台頭してくる。
 享禄3年(1530)水ケ江城主龍造寺家兼が周防大内勢を敗走させたことで戦国大名への野心を持ち始める。 しかし少弐氏重臣馬場氏らの謀略により一族郎党の多くを殺害され、龍造寺氏は壊滅状態となる。
 ところが、恩義ある蒲池氏を攻め滅ぼしたことで筑後国人衆が離反し、天正12年(1584)「沖田畷の戦い」で島津氏に大敗し龍造寺氏は衰退する。
 龍造寺政家の後見人であった鍋島直茂は豊臣秀吉に接近し、九州征伐に参陣する。 その活躍を評価された鍋島直茂は政家に代わって国政を担うよう命じられ、鍋島氏が実権を握ることとなる。
 江戸時代の佐賀県には佐賀藩と唐津藩の2藩が置かれた。佐賀藩には蓮池藩・鹿島藩・小城藩の支藩があった。 その他、対馬府中藩(厳原藩)の飛び地や幕府領があった。 佐賀藩は肥前国の戦国大名龍造寺氏の家臣だったが、龍造寺氏の衰退後に鍋島直茂が継承して成立した藩で、戦国期以来の領主が明治維新まで続くという稀有な藩の一つだ。
 それとは対照的に唐津藩は藩主が5度もかわり、長期的な藩政が行われなかった藩だった。
 現在の佐賀県が成立するまで、明治初期には統廃合が繰り返され、1876年(明治9年)には全県が他県に併合される事態も起きた。全県併合の背景には、1874年の佐賀の乱への処分の意味があったと言われている。併合後の根強い復県運動によって、7年後の1883年(明治16年)に佐賀県が復活する。
 県名の由来には諸説あるが、筆頭に挙げられているものを紹介する。
郡の中心部に大きなクスノキが茂っているのを見た日本武尊(ヤマトタケレノミコト)が、「この国は栄の国(さかのくに)と呼ぶがよい」と言ったという『肥前国風土記』の記述に由来し、「サカ(栄)」が転じて「サカ」になったとする説。

 

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