日常細事2020


kiji

2020.8.19 日本人のルーツを探る(35)
今回は長崎県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 律令制における肥前国の西部と、対馬国、壱岐国に相当する。
 古代より朝鮮半島の入り口にあたり、先進的な文化・技術が入る一方で、大陸・半島からの侵攻に備えた防衛線でもあった。
 鎌倉時代の対馬国守護は筑前国守護を兼帯する武藤氏(少弐氏)で、その地頭代として宗氏がいた。
 鎌倉時代の壱岐国守護は対馬国と同じく武藤氏(少弐氏)が補任され、南北朝期には宗像大社の大宮司宗像氏俊が壱岐国守護となった。宗氏は朝鮮半島との交易を認められ、積極的に半島との通交を行った。 しかし対馬は、半島や中国大陸の沿岸地域で海賊行為を行っていた倭寇の拠点とみなされ、 応永26年(1419)には倭寇討伐を目指す李氏朝鮮によって攻撃を受けている。(「応永の外寇」)
 李氏朝鮮との関係修復に努めた宗貞盛は、貿易協定締結に成功し、李氏朝鮮との貿易を独占していくことになる。
 ところが朝鮮貿易の利益を手に入れたい大内氏が敵対するようになり、主筋の少弐氏と共に戦った。 しかしその戦いで宗氏は敗れ、筑前国の領地を失っている。文明4年(1472)上松浦党の首領波多泰が壱岐へ侵攻する。 佐志氏ら壱岐の諸氏は波多氏に対抗したが敗れ、波多氏は壱岐守護を自称し壱岐国を制圧した。
 室町時代に入り、1419年には応永の外寇、1507年には五島で玉之浦納の反乱が起こっている。
 1550年には、ポルトガル船が平戸に来航した。これを知ったフランシスコ・ザビエルは鹿児島を出発し平戸を訪れ布教を開始した。 数多の争いの後、大村純忠はキリスト教の洗礼を受け、初のキリシタン大名となっている。大村純忠の兄である有馬義貞も口之津で洗礼を受けている。
 大村純忠は、ポルトガル貿易を自分の領地で行えるよう働きかけを行い、1571年に貿易港が口之津から長崎に移された。長崎は鎖国下の日本では数少ない国際貿易港となった。
 17世紀にはいるとオランダ東インド会社、イギリス東インド会社が相継いで平戸に商館を開設している。今の長崎県域には、鎖国時にも幕府公認で海外へ開かれていた港が2箇所存在した。なお、鎖国下における江戸幕府公認の国際貿易港は上記2港のみである。
 豊臣秀吉の九州征伐後、壱岐国は松浦氏領と確定し、明治維新を迎えている。
 長崎の地名は、鎌倉時代に「永崎浦」の形で見られる。地名の由来はこの地を統治した長崎氏の姓にちなみ名付けられたとする説がある。

 

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