2020.8.22 日本人のルーツを探る(36)
今回は熊本県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
令制国の肥後国にあたる。もとは肥前国と合わせて火国(肥国、ひのくに)と呼ばれ、噴火を繰り返す阿蘇山に由来するといわれてる。肥後国の国府は熊本市国府付近と推定されている。肥後国は生産力が高い豊かな土地で、地理的にも重要と判断されたため、律令体制下では大国の一つとされた。
中世には、阿蘇神社の神威を利用して勢力を拡大した多氏後裔の阿蘇氏、遠江国から地頭として下り球磨郡に土着した相良氏、大宰府の府官であった菊池氏といった豪族が勢力を伸ばした。
戦国時代に至って、相良氏は名和氏を追い肥後国南部を支配するが、北部では菊池氏や阿蘇氏の家中はしばしば乱れ、豊後守護の大友氏の介入を招くなどしたため、有力な戦国大名が現れず国人が割拠する状態が続いた。
戦国時代後期になると、肥後国をめぐって豊後大友氏と薩摩島津氏が対立するようになる。 大友義鎮は城氏・小代氏らを引き入れ、肥後国中北部を征圧名族菊地氏はここに滅びる。
国境を島津氏と接する相良氏は天正9年(1581)島津勢の猛攻ついに降伏、肥後国南部を制圧した島津軍は肥後国北中部の阿蘇氏領へ進出する。
肥後国の制圧を成し遂げ九州制覇を目前にした島津氏だったが、豊臣秀吉率いる10万の大軍勢の前に九州の国人衆は次々と降伏し、島津義久は剃髪して秀吉に降伏。ここに九州の戦国時代は終焉した。
豊臣秀吉の九州征伐により佐々成政が肥後の国主を命じられるが、太閤検地に反対する国人たちによる一揆が起こった。秀吉は一揆に参加した国人たちを徹底的に弾圧し、その勢力は一掃された。
その後、秀吉は北半分を加藤清正、南半分を小西行長に分け与え、球磨郡においては相良氏の支配を認めた。
小西行長が関ヶ原の戦いで敗れ滅亡すると加藤清正がその領地を併せ52万石の領主となった。清正は名城熊本城を築き、また河川・水路を改修して耕地を広げ生産力の向上に努めたため治水の名人として崇められた。
明治4年(1871年)、肥後国には熊本県と八代県が設置された、熊本県はその後白川県と改められ、1873年(明治6年)、白川県と八代県が合併して白川県となった。1876年(明治9年)、再び熊本県に改名され、現在の熊本県が誕生した。
県名は県庁所在地の名称に由来する。この地名は南北朝時代に「隈本」として見られ、慶長12年(1907年)、加藤清正が築城した際に「熊本」と改められた。
改められた理由は、「隈」の字に含まれる「畏」の字に「おそれる」「かしこまる」といった意味があるため、城名として強そうな「熊」の字が当てられたといわれる。
この記事に関するご感想などを下記メールでお寄せください。comfree@papars.net
2013年の記事を閲覧するには日常細事のアイコンをクリックしてください。
©2013 papa's_pocket. All rights reserved.