日常細事2020


kiji

2020.8.26 日本人のルーツを探る(37)
 今回は大分県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 律令制における豊後国の全域と、豊前国の宇佐郡・下毛郡に相当する。
 南北朝時代から戦国期の豊後国には、北部九州に勢力を築いた守護大友氏の発展と衰亡に大きく影響される。
 大友氏の豊後入国は、蒙古襲来に備えるため下向した3代大友頼泰からとされている。 足利尊氏が建武政権と対立すると、7代大友氏泰は尊氏を支持し、その功績により肥前・豊前・日向の守護に任じられている。
 応仁の乱がおこると、大友氏は東軍、周防・長門の豪族大内氏は西軍に味方し、対立関係になる。
 この頃になると大友氏内部の綻びが大きくなってくる。 16代大友政親と、守護職を継承した17代大友義右が不和となり、この隙を狙って大内義興が侵攻している。
 大友氏存亡の危機に、政親の異母弟・大友親治が立ち上がり、家中の混乱を収拾し、嫡男大友義長に大友家当主を相続させ、 幕府管領細川政元や将軍足利義澄と通じて、大内勢を破り、大友氏の戦国大名化への土台を築きあげている。
 しかし、家督相続をめぐり家中が対立し、義鎮派は重臣の津久見氏・田口氏によって命を落とす。 
 そして家督を継いだのが、キリシタン大名として知られる第21代大友義鎮(大友宗麟)である。 有能な家臣団を掌握できた大友氏は飛躍的に勢力を拡大する。
 一方で、弘治元年(1555)陶氏を撃破した毛利元就が台頭し、天正年間になると九州制覇を目指す島津氏が北進、天正6年(1578)「耳川の合戦」で大敗を喫し、大友氏は衰退に向かうことになる。
 大友氏に援軍を求められた豊臣秀吉はこれを好機と天正15年(1587)大軍を九州へ差し向ける。島津氏が軍門に下り、豊後国は大友氏に安堵され、豊臣大名に列せられることになる。 ところが22代大友義統は朝鮮出兵での失策により改易、鎌倉期以来の名族大友氏は豊後から消えることとなった。
 江戸時代当県にあたる地域には九州の幕府領を管轄する西国筋郡代の代官所が置かれ、各地には肥後、延岡、島原藩の飛び領も点在した。このため、大きな都市は形成されなかったものの、代わりに各地に特色ある文化が生まれた。
 現在の大分県の県名は『豊後国風土記』では、景行天皇がこの地を訪れた際に「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田国(おおきたのくに)と名づくべし」と感嘆して名づけ、これが後に「大分」と書かれたとされる。しかし、大分平野は広大とは言えないため、実際には狭く入り組んだ地形に多くの田が造られている様子を形容した「多き田」が転じて「大分」になったとする説が近年の定説である。

 

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