2020.8.29 日本人のルーツを探る(38)
今回は宮崎県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
古代律令国家の「日向国」は西暦684年から696年までの間に成立したものと考えられている。その日向国から702年には薩摩国が独立しさらに713年4月3日には大隅国が分立している。このとき南の一部を除いて今の宮崎県域にほぼ近い国域が確定した。
『古事記』に「竺紫(つくし)の日向の高千穂のくじふる嶺に天降りまさしめき」とあり、天照大神の孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が降り立った国(天孫降臨神話)。この神の孫である山幸彦と海幸彦の争い(山幸彦と海幸彦神話)、さらに、山幸彦の孫であるカムヤマトイワレヒコが、東征して大和橿原宮にて、天皇に即位し初代天皇神武天皇となった(神武東征神話)等の神話(日向神話)がある。
鎌倉時代の日向国は、北東部地域(延岡市辺り)を土持氏、西部の山間地域(高千穂町辺り)を大神氏流三田井氏が勢力を持ち、 中部地域には鎌倉御家人伊東氏が入って次第に基盤をつくり、南部地域には日向・大隅・薩摩にまたがる日本一広大な荘園・島津荘に地頭職を得た島津氏が根を張ることになる。
南北朝時代になると、北朝方足利尊氏は一門の畠山直顕が日向国に派遣し、南朝勢力に対峙させる。 一方の南朝方は懐良親王を下向させ、肥後菊地氏を味方に征西府を樹立、北朝方(武家側)との対決姿勢を鮮明にする。
その後、日向国も足利尊氏方・直冬方・宮方の三つ巴の争いに巻き込まれ、群雄割拠の状況になっていく。
室町時代中期には、北部の土持氏、中央部の伊東氏、南西部の北原氏、南東部の島津一族を中心となり、各地の国人領主を吸収しながらの勢力争いが展開される。
戦国時代になると、伊東氏が日向国中部南部(那珂郡・児湯郡・宮崎郡・臼杵郡・諸県郡)を掌握、佐土原城(宮崎市)を本拠に伊東四十八城で領内を統治し最盛期を築き上げた。 しかし、急速に勢力を拡大させる島津氏との抗争が激化、元亀3年(1572)5月「木崎原の戦い」で伊東氏は大敗し、日向国は島津氏が支配することになる。
江戸時代の日向国に大きな大名は置かれず、天領と小藩に分割されていた。 南部の諸県郡は薩摩藩が領有し、臼杵郡の一部は人吉藩領となっていた。
県名は県庁所在地の郡名に由来する。 奈良時代に「宮埼郡」で見られ、平安時代の『和名抄』で「宮崎郡」と見られるようになる。 「崎(埼)」の付く地名は、突き出た地や先端を意味することが多いが、宮崎の場合は「前(さき)」のことで、「宮前」が語源と思われる。
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