2020.8.4 日本人のルーツを探る(30)
今回は香川県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
香川(かがわ、讃岐、高松)といえば、金刀比羅宮、屋島源平合戦の古戦場、栗林公園、空海(弘法大師)の生まれ故郷、善通寺、満濃池、サヌカイト(讃岐岩、カンカン石)などで知られている。
令制国では讃岐国と呼ばれていた。平安時代初期には真言密教を興した空海が讃岐国那珂郡に生まれるなど畿外の地である割に文化が高かった。平安末期には瀬戸内海水運を握っていた平家が屋島を根拠地の一つとしていたが、源義経の奇襲に敗れて滅んだ。室町時代には細川氏が讃岐に根を張る南朝方を白峰合戦で破ると、讃岐阿波を中心として細川一族が四国を管轄した。
鎌倉幕府が滅亡して「建武の新政」が始まると、足利尊氏の一族細川定禅が讃岐に入り国人衆を糾合しする。 細川顕氏が讃岐守護に任じられると、以後細川氏が代々守護職に就くことになる。
しかし、細川一族の対決となった「白峰合戦」を制した細川頼之が守護職となると、以降細川氏嫡流(京兆家)の分国となった。
細川氏は管領として在京することが多く、領国支配は守護代の安富氏(東讃)と香川氏(西讃)に任された。
「応仁の乱」以後、幕府の求心力が衰えると、阿波の三好氏が讃岐国へ進出し、次第に安富氏・香川氏ら国人衆は三好氏の支配を受けるようになる。
このように讃岐の国人衆は細川氏によると領国支配とその崩壊の過程で、離合集散を繰り返すことになる。
戦国時代になり土佐国を統一した長宗我部氏が三好・織田氏の内乱に乗じて讃岐へ侵攻する、これにより織田信長による四国攻めを招くことになった。豊臣秀吉が四国平定に取りかかると讃岐へは宇喜多秀家を総大将とする豊臣軍が侵攻し、長宗我部元親が秀吉に屈服すると讃岐は仙石秀久に与えられ、その後は尾藤知宣、生駒氏が相次いで封ぜられる。当初は宇多津聖通寺城に拠点が置かれたが手狭のため高松に新城が築かれ拠点とされた。
江戸時代に入り、生駒氏が生駒騒動によって出羽国へ移されると、水戸徳川家の嫡流である松平頼重が高松に入って東讃高松藩12万石を、京極氏が丸亀に入って西讃丸亀藩5万1千石を領する。途中京極丸亀藩は支藩として多度津藩1万石を分立させたため、江戸時代の讃岐国には3つの藩が並立することになった。高松藩からは平賀源内が出ている。
県名は県庁所在地の高松市が所属していた郡名に由来する。 郡名は、「香河郡」として奈良時代から見られ、その由来は「かが川」の転で「かが」は平坦な草地を意味するという説。 古来より雨量が少なく、夏期に水枯れする河川が多かったことから「かれかわ(枯川)」が転じて「かがわ」になったとする説が有力。
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