2020.8.7 日本人のルーツを探る(31)
今回は愛媛県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
現在の愛媛県は令制国での伊予国に当たる。
伊予国は東西に長く、北は瀬戸内海、南は山岳部が多く、古くは海岸部近くに聚楽が作られたと考えられている。 国府は現在の今治市にあったといわれている。
室町時代には越智氏流とされる河野氏が守護となり武士団を形成、伊予国中部に勢力を拡大させる。 西部には宇都宮氏・西園寺氏が戦国大名として威勢をはる。
河野氏は源頼朝が挙兵すると源氏方に組みし奥州征伐にも参戦、その功績により伊予惣領職となる。
「建武の新政」では足利尊氏に付いた河野通盛が伊予守護職に任ぜられる。 ところが幕府管領細川頼之が伊予国へ侵攻、武力で守護職を奪い取る。
河野家再興を託された河野通直は南朝方に降り、幕府征討軍を撃破し、細川勢を伊予国より排除する殊に成功する。 その後、伊予国東部の新居郡・宇摩郡の割譲を条件に和睦が成立、河野家再興を成し遂げる。
「応仁の乱」が起こると、守護河野教通は東軍細川勝元に組みし、一方分流の予州家河野通春が西軍に付いたため河野氏の内紛が起こる。 そして有力国人らの反抗、他国の大名の進出によって伊予国は動揺し始める。
天正年間に入ると、土佐の長宗我部元親の侵攻を受けるようになり、内通した国人層が反乱を起こします。 天正4年(1576)河野氏は長宗我部軍に屈する。その後、天正13年(1585)の豊臣秀吉よる四国征討が始まり、伊予国は小早川隆景率いる大軍に降伏、平定された。
江戸時代に入ると、徳川家康が関ヶ原の戦いで西軍を破り江戸幕府を開く前、伊予国は織豊大名の加藤嘉明、福島正則、安国寺恵瓊などが伊予を治めていた。戦後の論功行賞で西軍についた安国寺恵瓊が領地没収・梟首に処され、東軍についた福島・加藤はそれぞれ備後・安芸49万石(広島藩)と伊予松山に20万石へ加増され、加藤が伊予松山藩を立藩した。伊予松山藩はのちに蒲生氏、久松松平氏と領主が変わり明治維新まで続いた。
伊予松山藩以外では、関ヶ原の戦いで東軍の勝利に尽力した藤堂高虎が今治20万石を加増され今治藩を立藩(のちに藤堂は伊勢・伊賀へ転封)、その後伊予松山藩松平定行の弟松平定房が3万石を領し今治城へ入城、明治維新まで系譜を存続させた。
「えひめ」の地名は、古くは古事記上巻のイザナギとイザナミによる国生みの段に、「伊豫國謂愛比賣」(伊予国は愛比売と謂ひ)と見える。のちに「愛比売」が「愛媛」へと転化した。全国で唯一の神名をつけた県である。
この記事に関するご感想などを下記メールでお寄せください。comfree@papars.net
2013年の記事を閲覧するには日常細事のアイコンをクリックしてください。
©2013 papa's_pocket. All rights reserved.