2020.9.10 日本人のルーツを探る(42)
今回は茨城県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/)
令制国の常陸国全域と下総国の北部にあたる。
常陸国は親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介である。
下総国の結城・豊田・岡田・猿島の4郡と葛飾・相馬両郡の一部が茨城県となる。
南北朝期になると、常陸国守護職となった佐竹氏が頭角を現す。佐竹氏は新羅三郎義光の孫源昌義が、常陸国久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に土着し、「佐竹冠者」を名乗ったことに始る。
平安時代後期には常陸奥七郡(常陸国北部)を支配し、大掾氏と姻戚関係を結びながら勢力基盤を築いていく。 源頼朝の挙兵に平家方となったため所領を没収され、のちに奥州合戦に加わったものの、鎌倉期の佐竹氏は不遇の時代を過ごす。
親交があった足利氏が挙兵するとすぐに呼応し、のちに鎌倉府の重鎮・関東八屋形の一つに列せられる。 ところが佐竹宗家に関東管領上杉氏より婿養子に迎えた頃から、庶流の佐竹山入家が反旗を翻し、一族に内紛がおこる。 さらに周囲には勢力を持つ大掾氏・那珂氏(後の江戸氏)の諸豪が存在し、戦国大名化が遅れることになる。
下総国結城郡からは結城氏が起こる結城氏は秀郷流藤原氏の小山朝光が結城郡を領して名乗ったことに始まる。
足利尊氏が挙兵すると、常に北朝側勢力として働き、佐竹氏と同じく鎌倉府の関東八屋形の一つに列せられる。 鎌倉公方足利持氏が関東管領上杉氏と対立すると、結城氏朝は鎌倉公方を支持し、持氏の死後はその遺児を擁して幕府に反旗を翻した。 敗れた結城氏は衰えたが、結城成朝が再興し戦国大名として発展していく。
戦国時代になると、小田原北条氏・越後上杉氏の侵攻を許し、国内の諸豪は生き残りをかけて争うことになる。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐により関東の戦国時代を終わりを告げ、その後の諸豪の行く末が決定されることになる。
小田原征伐に参陣した佐竹義重に常陸国が与えられ、大掾氏・江戸氏は滅亡した。 下総国では参陣した結城氏が安堵され、改易となった小田氏領の一部を与えられている。
明治維新後、藩県併置時代や廃藩置県の当初の段階では「茨城県」は設置されていなかった。その後すぐ行われた諸県の統合に際して、水戸・松岡・宍戸・笠間・下館・下妻の6県を主体として茨城県が成立したのが県名としての始まりとなる。県名の「茨城」は、現在「いばらき」と読まれている。
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