日常細事2020


kiji

2020.9.13 日本人のルーツを探る(43)
 今回は群馬県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 律令制の下では東山道上野国で、国司が国を治める国府の所在地は現在の前橋市元総社町付近であったと推定されている。
 中世の上野国には荘園や国衙領を基盤とした中小武士団が勃興する。 県北部から東部にかけて秀郷流藤原氏一族、東部の新田荘に新田氏一族、県南部には武蔵から秩父党系、 国衙領が集まる群馬郡・甘楽郡には在庁宮人系の諸氏が起こった。
 南北朝期になると、新田義貞が後醍醐天皇による「建武の新政」に活躍するが、 足利尊氏との抗争に敗れ新田氏一族は衰退し、同族里見・山名氏は本拠地を国外へ移す。 そして新田荘へは足利方の岩松氏が勢力を伸ばす。
 戦国時代になると、県南部は山内上杉家の勢力下に入り、東部は岩松氏(のちに由良氏)、西部は長野氏が勢力を振るう。 また、上野守護代長尾氏は惣社長尾氏・白井長尾氏に分立し、山内上杉氏の家老として影響を持った。
 その後、伊豆堀越公方と下総古河公方が対立、その複雑な情勢のなか関東管領山内上杉家は北関東の戦国領主として成長する。 しかし新興勢力の台頭に山内上杉家の存亡の危機を迎える。
 甲斐の武田氏・駿河の今川氏と同盟を結んだ相模の後北条氏は、天文15年の「河越夜戦」で山内上杉氏を圧倒し、山内上杉氏の勢力は急速に減退する。 永禄年間になると武田信玄が西上野へ侵攻、武田の領国とし、さらなる南下を試みた。
 新たに山内上杉家の家督と関東管領職を継承した越後の長尾景虎(上杉謙信)は上野国へ進出。こうした情勢のなか上野の国衆は上杉氏、後北条氏、さらには武田氏に属し、離合集散を繰り返しながら生き残りをかけた戦いを続けた。
 織田信長により甲斐武田氏が滅亡し、豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が没落すると、上野国は徳川家康の支配地となり、徳川配下の将士が入ることになる。
 江戸時代初期には東国の北の守りとして主に譜代大名が上州に配置され、前橋藩、高崎藩、沼田藩、館林藩、安中藩、小幡藩、伊勢崎藩、吉井藩、七日市藩などがあり、交代寄合旗本では岩松(新田)氏の岩松陣屋があった。また岩鼻には上野国内の幕府領を支配する代官の陣屋(岩鼻陣屋)が置かれた。
 県名の由来は、およそ1,300年前に遡る、藤原京(694~710年)の時代の資料によると、現在の群馬県の中に「車評(くるまのこおり)」(「評」は大宝律令によって「郡」となる)と呼ばれていた地域があったとされている。奈良時代に入るとすぐ、郡名「車(くるま)郡」は「群馬(くるま)郡」に改められたことが発端とされている。

 

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