日常細事2020


kiji

2020.9.16 日本人のルーツを探る(44)
 今回は埼玉県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 令制国の武蔵国の足立・新座・入間・高麗・比企・横見・埼玉・大里・男衾・幡羅・榛沢・那珂・児玉・賀美・秩父郡に相当する。
 平安時代中期になると国司役人として下向し、そのまま土着して勢力を拡大するものが現われる。彼らは武士団を形成し、源頼朝が挙兵すると加わり、鎌倉御家人となった者は所領を得て諸国に散らばっていく。今日に系を伝える武士発祥の地といえる土地である。
 なかでも桓武平氏平良文を祖とする諸氏は武蔵国周辺で有力武士団を形成し「坂東八平氏」と呼ばれるようになる。
  武蔵国秩父郡を拠点とした平将恒は秩父氏を称し武蔵国各地に勢力を拡大し、この一族は秩父平氏や秩父党と呼ばれる。 秩父氏族からは大族となる分流が出る。さらには「武蔵七党」と呼ばれる武士団が形成され、地域に根を張っていく。「武蔵七党」に数えるともいう私市党は埼玉郡騎西庄にも起こる。
 室町期の武蔵国は上野国を本拠地とする関東管領山内上杉家が守護となり、家宰長尾氏が影響力を持っていた。 しかし室町幕府と鎌倉府の対立や鎌倉府と関東管領の対立で武蔵国はその政争と戦乱に巻き込まれいく。
 相模国では北条早雲が台頭し南武蔵へ侵攻北条氏康は次々武蔵国の在地勢力を制圧していく。
 天文15年(1546)武蔵奪還を目指して両上杉氏と古河公方は川越城へ軍勢を送り込む。 小田原北条氏はこの「河越夜戦」で扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏を越後に追放させ、永禄2年(1559)頃には武蔵国全域を支配じ、豊臣(羽柴)家に次ぐ全国第二位の勢力となる。
 天正18年(1590年)には豊臣秀吉の天下統一における小田原征伐において後北条氏は没落する。後北条氏の没落に際して東海五カ国を支配していた徳川家康が関東へ転封され、武蔵を含む関東地域には徳川氏の家臣団が配置された。
 江戸幕府により江戸を起点とした五街道の整備が進められ、埼玉県内には中山道に9つの宿場、日光街道(奥州街道)に6つの宿場が置かれた。五街道に準ずる脇往還は、県内では川越往還、川越・児玉往還、日光脇往還、日光御成街道、関宿往還、秩父往還、秩父甲州往還が整備された。
 その名称の由来は諸説あるが、埼玉古墳群が由来とする説や、幸福をもたらす神の働きを意味する「幸魂」(さきみたま)から名づけられたとする説がある。また、平安時代の『和名類聚抄』に「埼玉」「佐伊太末」(さいたま)という郡名を見ることができる。
 
 

 

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