2020.9.19 日本人のルーツを探る(45)
今回は千葉県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
令制国の上総国と安房国、そして下総国の一部にあたる。 上総国は親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介だった。
平安時代中期、地方に活路を見出した中小貴族が土着し在地領主化していく。特に桓武平氏平忠常は常陸・上総・下総国で勢力を持ち、その強大な武力を背景に反乱「平忠常の乱」を起こす。反乱は鎮定されたが房総地域は「亡国」と言われるほど荒廃した。
平忠常の子孫は房総平氏といい後に鎌倉幕府御家人となる千葉氏・上総氏が出ている。千葉氏は源頼朝の挙兵に従い鎌倉幕府創業に尽力し、その功績により千葉常胤は下総国の守護となり上総国にも勢力を進出し、さらに東北や九州にも勢力を拡大した。
室町時代になると、鎌倉公方と室町幕府の対立、そこに関東管領の上杉氏も加わり戦乱が続く。この戦乱に関東の諸豪は振り回されることになる。
千葉氏も一族の内紛により、勢力を減退させ、急速に台頭した小田原北条氏に攻め込まれ、従属することを余儀なくされた。
天正18年(1590)豊臣秀吉により小田原北条氏が滅亡すると、戦国大名として覇権を握った千葉氏は所領を失い、里見氏は安房一国を安堵された。第31代当主千葉重胤の時に豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が没落すると、千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉家は断絶してしまった。一方、里見氏も房総半島南部一帯に勢力を伸ばしていたが、小田原征伐の際の軍事行動が私的な戦闘行為とみなされて安房一国に削減された。
北条氏滅亡後に徳川家康が駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5か国から下総・上総を含む関八州に移封されたことにより、房総の大部分がその支配下に入る。上総・下総には、常陸佐竹氏と安房里見氏を警戒して、本多忠勝を始めとする徳川家の譜代家臣団が配置されるも、里見家は存続し、引き続き安房を領有する。だが、江戸時代初めに起きた大久保忠隣失脚の余波を受けて改易、その後断絶することになる。
江戸幕府が開かれると、房総で最も大きな大名は下総佐倉藩(11万石)で、幕末には、藩主だった堀田正睦が老中としてアメリカとの交渉役を務めた。
千葉県という県名は、1873年(明治6年)に木更津県と印旛県が合併して当県が設置された際に、千葉郡千葉町に県庁が置かれたことに由来する。県庁所在地名と郡名が同じため、そのいずれに由来するかは不明である。また、千葉という地名自体がいつの頃に発生したのかは定かではないが、律令制以前の国造名(千葉国造)や律令制以来の郡名(千葉郡)に見ることができる。
この記事に関するご感想などを下記メールでお寄せください。comfree@papars.net
2013年の記事を閲覧するには日常細事のアイコンをクリックしてください。
©2013 papa's_pocket. All rights reserved.