日常細事2020


kiji

2020.9.1 日本人のルーツを探る(39)
 今回は鹿児島県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 令制国の薩摩国と大隅国にあたる。 薩摩国の国府は薩摩川内市大園付近、大隅国の国府は霧島市国分府中付近と推定されている。
 飛鳥・奈良時代に入る7世紀末以降、薩摩・大隅地域の住民の一部は隼人(はやと)と呼ばれた。律令国家の成立とともに隼人は次第に中央の律令制に組み込まれていく事になる。朝廷は太宰府から兵を送り702年(大宝2年)には唱更国(後の薩摩国)を設置し、また豊前国から713年(和銅6年)設置の大隅国にも人民を送り、朝廷の支配体制に組み込もうとする。これに対し7世紀末から8世紀前期まで4つの大きな反乱があり、中でも最大の反乱は720年(養老4年)- 721年(同5年)の隼人の反乱であり、この結果ついに平定される事になる。
 平定後の隼人は、9世紀初頭まで朝廷に朝貢する形態となっていたが、それ以降班田収授法が本格的に施行される。これらの時期と前後する7、8世紀ごろには、遣唐使船の行き来(南方航路)や、南島の島々(奄美、球美、信覚など)からも朝廷への朝貢があった。
 中世の鹿児島県の歴史は領国統一に邁進する守護島津氏の内紛と、それに反抗する反島津の諸豪族との戦いの歴史といえる。
 守護島津氏の歴史は、文治元年(1185)島津忠久が島津荘下司職に補任されたことに始まる。翌2年地頭職に補任され、建久8年(1197)には守護職を補任されている。
 島津荘は日向・大隅・薩摩にまたがる日本一広大な荘園で、忠久の頃は鎌倉に居住し、派遣した一族や在地領主を使って領国統治を行っていた。3代島津久経は元寇を機に本格的に下向し、以来島津氏による在地支配が推し進められることになる。
 戦国大名の基礎を作ったのは15代島津貴久と考えられている。
 貴久は薩摩国の統一を成し遂げ、名実ともに薩摩国主としての地位を確立、西大隅もほぼ制圧する。 また守護所を清水城から、海岸に近い内城(鹿児島市大竜町)に移し本城と定めている。
 九州制覇の野心に燃える島津氏はさらに北進し、天正12年「沖田畷の戦い」で肥前龍造寺氏を撃ち破り、これにより肥後の諸豪は次々と島津氏に服属し肥後国の制圧を成し遂げた。
 ところが天正15年(1587)全国制覇を狙う豊臣秀吉が九州制圧に出陣し、島津義久は降伏した。これにより九州の戦国時代は終焉し、薩摩・大隅両国は秀吉政権の支配下に入ることになった。
 「鹿児島」の語源は、「神籠もる島」という説、「カゴ」は崖という意味で、四方が崖に囲まれている桜島は「カゴ島」と謂われ、鹿児島は桜島の古い名であるという説、など諸説ある。

 

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