2020.9.22 日本人のルーツを探る(46)
今回は東京都の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
令制国の武蔵国の葛飾郡・足立郡・豊島郡・多摩郡・荏原郡と下総国・伊豆国の一部が含まれる。
平安時代後期、秩父氏流の江戸重継が荏原郡江戸に城館(のちの江戸城)を築く。
江戸氏は鎌倉幕府の御家人、北条得宗家の被官となり、一族を江戸周辺に配置するが、室町時代には勢力を失う。
代わって関東管領上杉氏の家老太田道灌が長禄年頃(1456)江戸氏の居館跡に江戸城を築き、南関東一円で勢力を振るう。
道灌が歿すると扇谷上杉氏が江戸城に入り武蔵国支配を試みる。 しかし扇谷上杉氏が武蔵国への進出を目指す小田原北条氏に敗れると、江戸城は小田原北条氏の支配下となり、武蔵国支配の拠点となる。
鎌倉公方に仕えた吉良治家は「鎌倉公方の御一家」の扱いを受け、成高の代に世田谷城(荏原郡世田谷)を構え、小田原北条氏の傘下に入っている。
南北朝時代には武蔵に残った武蔵七党系の中小武士団が結束して国人一揆を結成した。『太平記』では、平一揆や白旗一揆が有名である。
その後、武蔵平一揆の乱で河越氏は没落。国人達は武州南一揆や北一揆などを作り、関東管領上杉氏や後北条氏の下で戦った。
同じ秩父氏族で、「保元・平治の乱」に参陣した秩父武常が豊島郡を領して豊島氏を名乗り、豊島郡を中心に勢力を広げる。 しかし太田道灌との抗争に敗れ一族は存亡の危機を迎え、小田原北条氏の配下となることで命脈を保つ。
後北条氏当主北条氏政の弟である北条氏照は八王子城を築き、西方の甲斐国の武田氏に備えた。後北条氏は豊臣秀吉の小田原征伐によって1590年に滅んだ。
後北条氏の滅亡後、豊臣政権下においては東海地方と武田遺領である甲信地方の5ヶ国を支配していた徳川家康は関東地方(武蔵国を含むほとんど全部)への領地替えとなり、駿府城(旧静岡市)から江戸城に入る。
関ヶ原の戦いを経て家康は引き続き江戸を武家政権の所在地と定め、1603年3月24日(旧暦2月12日)に江戸幕府を開き、江戸時代が到来する。ここに首都は京都でありながら、幕府の所在する江戸が実質的に日本の行政の中心地となる。18世紀後半から19世紀初頭には、化政文化をはじめとする江戸独自の文化が発達し、上方に代わる文化の発信地となっていった。
1868年(慶応4年・明治元年)7月17日に「江戸ハ東国-ノ大鎮四方輻湊ノ地、宜シク親臨以テ其政ヲネレヘシ。因テ自江戸ヲ称シテ東泉トセン。」という詔勅により、「江戸」が改称され「東京府」となった。
この記事に関するご感想などを下記メールでお寄せください。comfree@papars.net
2013年の記事を閲覧するには日常細事のアイコンをクリックしてください。
©2013 papa's_pocket. All rights reserved.