日常細事2020


kiji

2020.9.26 日本人のルーツを探る(47)
 今回は神奈川県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
令制国の相模国と武蔵国の橘樹郡・都筑郡・久良郡に相当する。
 戦国期以前の神奈川県は、鎌倉は源頼朝が開いた鎌倉幕府と室町幕府の鎌倉府が置かれ京とともに政治の中心地だった。
 鎌倉時代以来、相模国守護は三浦半島を本拠地とする武士団三浦党の惣領三浦氏が就き現平塚・伊勢原市域を中心に勢力を持つ。 三浦氏は坂東平氏の一つで源頼朝の挙兵に積極的に応じて幕府創業に貢献した。 三浦氏族は他国にも広がり、勢力を得て国人領主になったものも少なくない。
 その他、大庭氏・梶原氏・二階堂氏・渋谷氏など相模武士の多くは頼朝の幕府創業に加わっている。
 室町時代には、室町幕府により、関東八ヶ国(関八州)及び甲斐、伊豆の十カ国を統治する為に鎌倉府が置かれていた。実質的な政務は、鎌倉府の長である鎌倉公方ではなく、補佐役の関東管領が執り行っていたため、関東管領の直轄地となっていた。 
 戦国時代には小田原城を拠点とする戦国大名北条氏が旧支配勢力を滅ぼし、関東の覇者として不動の地位を固めた。後北条氏の優れた統治のもと、小田原は関東最大の都市(城下町)に成長させた。当時「西の山口、東の小田原」と謳われた程国内でも発展した都市の一つとなっていた。
 北条氏政の代には越後上杉謙信の侵攻を退け、織田信長の滅亡、徳川氏との同盟により上野・下野・常陸・駿河・房総半島へと支配地を広げた。
 ところが西日本を統一した豊臣秀吉は、私戦を禁止した惣無事令に背いたとして小田原征伐を決断する。 氏政は数ヶ月の籠城の末に降伏して切腹し、小田原北条氏による関東支配は終結した。
 相模国は徳川家康の支配地となり、徳川配下の将士が入ることになる。
 江戸時代には小田原藩が存在したが、旗本領も多く三浦按針(ウィリアム・アダムス)が徳川家康から三浦半島に領地を拝領したことは有名である。
 江戸時代初期には徳川家康が好んで鷹狩りを行い、小杉御殿(現在の川崎市中原区)、神奈川御殿(横浜市)、藤沢御殿(現在の藤沢市)、中原御殿(現在の平塚市)などの将軍滞在所が置かれた。
 「かながわ」の名は昔、神奈河、神名川、上無川などとも書かれ、武蔵国久良岐郡(現在の横浜市神奈川区)の地域をいい、古くから陸上・海上交通の重要なところだった。これが県名になったのは、横浜開港に伴い、安政6年(1859)に「神奈川奉行所」を置いたことによる。そして、明治元年(1868)9月に神奈川県となった。
 

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