2020.9.4 日本人のルーツを探る(40)
今回は沖縄県の成り立ちを調べてみた。(https://www.tabirai.net/sightseeing/
okinawa/
info/about/history.aspxから抜粋)
長く続いた貝塚時代のあと農耕文化へと移り、社会を形成し、各地には按司(あじ)と呼ばれる実力者が出現しグスク(「御城」もしくはスク「城」)が築かれることになる。
一方、海外交易も盛んに行われるようになり、交易で得た富や権力を元に按司(あじ)が地域を治めグスクを築き支配力を高めていった。勝連城をはじめとする有名なグスク以外にも沖縄各地には、当時のグスクが現存する。日本では鎌倉時代にあたり、時、同じくして、有力な武士が支配力を強め小国家を形成していた時期と重なる。
農耕社会が形成されると共に、作付け、収穫などの共同作業が必要となり集落内での協力、集落外との交流が始まる。今につながる「ゆいまーる精神」が培われたと言える。浦添、読谷、中城、勝連、佐敷、今帰仁といった良港をもった按司は、その勢力を更に拡大させて行き、やがて按司を統率する「世の主」が現れ、今帰仁を中心とした「北山」、浦添を中心とした「中山」、大里を中心とした「南山」に大きなグスクを築城して、沖縄本島を3分割する三山時代となった。
三山時代に終わりを告げるのは、1429年佐敷の按司であった尚巴志が琉球統一を図り、首里城を整備し琉球王国の中心に据えた。これを第一尚氏王朝と呼んでいる。このころに三線、泡盛、紅型といった琉球文化の基礎が流入した。琉球王国の政治、文化の中心であった首里城では、中国からの使者「冊封使」が訪れるようになる。
交易で得られる利権争いによって、薩摩・島津藩の琉球侵入とともに第二尚氏王朝は日本(ヤマト)の実質統治下に置かれることとなった。1609年に薩摩藩が沖縄北部の運天港に上陸し、首里城を占拠。江戸幕府の徳川家康から琉球の支配権を与えられた島津の統治下に入ることとなった。事実上、幕府に組み込まれた琉球は、江戸へ使節を送ることが慣例となり、これを「江戸上り」といい、琉球装束を身にまとうことで、独立国としての対面を保っていたともいわれる。
日本では明治維新により新政府が誕生。これによって廃藩置県が行われ、琉球王国は琉球藩として位置づけられたが、明治12年(1879)には、ついに琉球王国が崩壊した。沖縄県の誕生である。
近世の俗称に由来する地名として「おき」は文字通り「沖」を意味し「なは(なわ)は「漁場」を意味する「なば」で「沖合の漁場」とする説が有力とされている。
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