日常細事2020


kiji

2020.9.7 日本人のルーツを探る(41)
 今回は栃木県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 古墳時代、現在の鬼怒川流域一帯には毛野国があり、のち上下にわかれ下毛野国(しもつけのくに)が成立した。
 7世紀後半になると下毛野国と那須国が統一されて下野国(しもつけのくに)となり、現在の栃木県の県域が形作らた。 唐名の「野州(やしゅう)」の呼称も使われている。
 宇都宮二荒山神社は宇都宮大明神と呼ばれ古来からその武徳が尊ばれてきた。藤原北家魚名流・藤原秀郷(俵藤太、田原藤太)卿は平将門の乱の折、その追討を命じられたが苦戦、当神社に参じて授かった霊剣をもって将門を制したと言われる。(この頃二荒山神社:ふたらさんじんじゃ:は日光の二荒山神社との区別のために鎮座地名を冠して「宇都宮二荒山神社」と呼ばれている)
 ここで戦国期以前の状況を見ると、下野国は武家藤原氏の祖藤原秀郷が土着したところで、その子孫は足利氏・小山氏など北関東を中心に広がっていた。
 南北朝時代、北朝方(武家方)の小山氏が下野国守護に就いていたが、南朝方(宮方)でも同族の結城氏を守護職につけるなど、両派の対立は混迷を深めていた。
 しかし鎌倉公方が衰退すると結城氏の命運も暗転し、幕府軍と「結城合戦」を戦い一時滅亡することになってしまう。
 宇都宮氏の中興の祖であり17代当主である宇都宮成綱は。後北条氏での北条早雲のような戦国時代を生き抜くための革新的な思想、戦略的野望を抱いていた英主だといわれており、成綱の優れた才能によって家臣団を再編し、古河公方の内紛に介入したり、佐竹氏・岩城氏・蘆名氏などと戦い宇都宮氏の勢力を大きく拡大し、全盛期を築き上げた。
 しかし、成綱が没した後は、宇都宮氏は大きく衰退していくことになる。さらに天文年間、那須氏と戦って大敗し、諸族は皆那須氏に帰属してしまう。また北条氏が下野国南境を攻略し、宇都宮氏は衰退した。豊臣氏の東征では那須氏の地を収め那須家臣の大関高増を黒羽に大田原晴清を大田原に封じ、那須氏には僅か福原のみを与えた。宇都宮国綱は独りその旧封である18万7千余石を全うすることになる。
 県名は、県成立時の県庁所在地の町名「橡木町」による。
県成立時に「橡」から「栃」に文字が変更されているが、いすれも植物の「トチノキ」を表す漢字である。栃木の由来は、トチノキが多く生えていたからといった説もあるが、諸説あるうちの一つである。

 

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