2021.1.29 人の一生
今年最初に届いた手紙は訃報だった。亡くなったのは50年来の付き合いのある親しい友人だった。コロナ禍で葬儀等は家族で慎ましく済ませたそうだ。享年84歳だった。
その彼は「エンディングノート」を残していたそうで、その中身は相当細かいようで、入院したら延命措置はとるなとか墓は遠い故郷の地にある先祖から伝わる墓所に納骨しろとか、遺影は私が送ったA4版に引き伸ばした彼の遺影(冗談で数年前に送った)を使えなど、細々書かれていたようで、ユーモアを兼ね備えた文才のある男だったから、きっと冗談交じりで書き残したにちがいない。
こうした手記は人は死ぬものと実感させられるもので、身近な友がどのような覚悟でこれを記したか知る由もないが、私が始めて現実に接したエンディングノートの存在がそこにはあった。
果たして私は死ぬことに際してこのようなエンディングノートを書き残すだろうか。私の実感がそれをさせない。明日死ぬことはないと思い込んでいるから。多分医者に余命を宣告されたら筆を執るだろう。多分私より長生きするだろう家族に残すべき事柄は数多くある。インターネット関連の契約の解除などは私しかできない。残された家族に残すのがエンディングノートなら、それはもうそう遠くないうちに作成しておく必要がある。
人の一生は一つの大河ドラマになるという喩がある。亡くなった彼から聞いた話の数々は生きていた彼のほんの一部だから、記憶力抜群の彼ならきっと素晴らしい作品を書き上げることができただろう。「記憶より記録」というのが私の口癖だが、記録に残すということは手間暇かかる難しい作業だ。だからほとんどの人は自分が生きた証拠を文字にして残すことはない。
亡くなった彼は体が大きく六尺豊かで100キロを超す体の持ち主で、見た目通り豪放磊落でいつも人の中心にいた。怖いもの知らずの親分気質でそれが魅力だった。私も彼には少なからず恩義がある。それが借りならばそれは最早返すことはできない。
ここでは一見彼と私との関係のように見えるが、我々はグループ関係の一員である。かつて職場を一にした。いわゆるOB会となってからは、6人のグループとなり、毎年数回宿泊麻雀で会合した。四人づつ交代でまだ60代の時は徹夜で楽しんだ。それから20年近く時が過ぎ、6人の内2人が欠けた。残された4人も80歳を超える高齢者ばかりだ。3月ごろからワクチンの接種が始まるという。6月ごろに接種が終われば、今度は4人で再会することになるだろう。その席でどのように追悼のメッセージを送ればよいのか、一人一人の胸の内は哀しみとちょっとした困惑を感じていることだろう。
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