2021.7.23 諺集に見るわが人生(6)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「朝」から始めて、回顧していくことにする。
「朝風呂丹前長火鉢」朝から風呂に入り、丹前(くつろいだ時に着る。防寒用の和服。広袖で綿入れの衣服)を着て、長火鉢の前でくつろぐこと。気楽な生活のたとえ。これは冬の景色を描いたものだが、私が子供の頃を思い出せば、父親も祖父もそんな姿でくつろいでいる姿など見た記憶にない。
私は今隠居だからこのような真似事をしようと思えばできる。ちょっと普通の御隠居とは違い仕事を持っている(HPの作成)から長火鉢ならぬパソコンの前で頭をひねっている日常だ。仕事さえなければ昔風なご気楽なライフスタイルもやってやれぬことはない。
せかせかしたご時世だから、同僚の御同輩たちも似たようなもので、何かと忙しく毎日を過ごしているようだ。
「朝飯前のお茶漬け」物事が簡単にできることの喩。朝飯の前の空腹時に食べるお茶漬けはさらさらと簡単に食べられることから。昔の人は日の出とともに起きたから、早起きだったのでしょう。
私などは朝起きたらすぐ朝飯だから、朝飯前には何にもできない。前にも出た諺に「早起きは三文の徳」というのがあった。まさに昔の人の日常は朝飯前に仕事ができる余裕があったのだろう。
「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」孔子『春秋時代の中国の思想家、儒教の始祖で(紀元前552~前479)』の論語からの言葉で「もしも朝、人の生きる道を聞くことができたら、その夕方に死んでも心残りはない」名句には多くの解釈や諸説がある。その中の一つ「この一句が、孔子が死を前にして弟子を励ました言葉か、それとも飽くことのない学問追求の態度を表す言葉かはっきりしないが、いずれにせよ道を求めることを強く主張しているものであることには変わりがない」これらのルーツを探っていると難しくて肩が凝る。「論語読みの論語知らず」とか「明日は明日の風が吹く」という楽天的な諺の方が私には向いているのかも知れない。
今回の〆となる諺は「味も素っ気もない」何の面白さもない、無味乾燥のこと。何と身につまされる言葉か。 次回に続く
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