日常細事2021pre


kiji

2021.7.27 諺集に見るわが人生(7) 
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「明」から始めて、回顧していくことにする。
 「明日ありと思う心の仇桜」人の世の無常、はかなさをいうもの。明日も桜は咲いているだろうと安心していると、夜のうちに散ってしまうかもしれないという意から。仇花とは散りやすくはかない桜花のこと。類義に「諸行無常」「世の中は三日見ぬ間の桜かな」。
 話の市の中で「老いて後に禅を知る」で特集しているように、私にとって生きるということの意義を追及する中で、予期せぬ人との別れが重なることが多くなり、人の世の無常を感じている。
 そう悲観することもない。「明日まだ手つかず」明日はまだ手つかずで残っているのだから、あわてることはないということ。明日は明日、今日は今日というのが似たような諺。
 「畔から行くも田から行くも同じ」私は初めて目にした諺だが、この内容が中々意味深い。「手段や方法は違っても結果は同じだということ。畦道を通って行っても田を踏んでいっても、行き着くところは同じという」。私は方向音痴だから田から行っても、畔から行ってもどちらも全然別の所に行ってしまう。今にして思えば「よく道を踏み外さなかったものだ」と思う。
 「頭隠して尻隠さず」これは江戸いろはかるたにもある諺で、誰でも知っているだろう。だがその意味を知っている人はどれほどいるだろうか。類義に「雉の隠れ」というのがある。
 意味は同じで「悪事や欠点などの一部だけを隠し全体を隠したつもりでいることのたとえ。雉は追われると草むらの中に頭を突っ込むが、長い尾が外に突き出て丸見えになっていることからこう言われている。わたしなどもカミさんに小さな言い訳から全てを見抜かれてがんじがらめの状態になること屡々である。 次回に続く





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