日常細事2022pre


kiji


2024.1.27 諺集に見るわが人生(247)

 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 「鹿を追う者は山を見ず」1つの対象を追求するあまり他を顧みる余裕がないことを例えた表現。 また、利益を得ることに熱中している者は、他のことを顧みなくなることの例えとしても使用される。 特定の物事に囚われていることで、本質を見失っている状態を指すこともある。
 「淮南子」の「獣を逐う者は、目に太山を見ず」から来ていて、ある目的や利益に熱中して追い求める者は、他の大事な事柄や状況に気を取られなくなる、という意味。
 (類義語)・木を数えて林を忘れる・木を見て森を見ず・金を攫つかむ者は人を見ず・木っ端を拾うて材木を流す
(例文)「目先の利益だけではなくお客様のことも考えましょう。鹿を追う者は山を見ず、今は良くても続きませんよ」
 目先のことに捉われて、つい本来の目的を忘れてしまうことはよくある。

「只管打坐(しかんたざ)」ひたすら坐禅すること。 「只管」とは、ひたすら、ただもっぱらそのことだけをする、という意味である。「打坐」とは、座ること、坐禅をすることという意味です。 また、「只管打坐」の重要なポイントは、悟りを求めるなど、なんらの目的も持たず、ただひたすらに坐禅することにある。
 「只管打坐」は曹洞宗の道元が説いた、ただひたすら座り続ける坐禅修行のやり方のこと。只管打坐は「心身脱落」の境地を目指す。
「只管打坐」によって「心身脱落」の境地に至ることが、道元の禅の教え。道元の著書『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』には、「仏道を学ぶとは、自己を学ぶことです。自己を学ぶとは、自己を忘れることだ」と書かれている。
 道元禅については、ポケットの「話の市」の中の老いて後に「禅を知る」を閲覧して頂きたい。 次回に続く。






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