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2016.1.1 一日がライフワーク

 年頭にあたって、大げさな話だが、私の今年の所感を述べさせて頂く。
 ホームページを公開してから足掛け4年。何回かのリニューアルを行い、今のフォームができ上がった。これからも変更が加えられるだろうが、当面は中身の充実を図ることが主眼となるだろう。手がける範囲が広いだけに、毎日手を抜けない作業が待っている。
こうしたことを続けることが表題の「一日のライフワーク」の概要である。
 自分では創作活動だと思っているが、ほとんどが習作活動である。すなわち、原典があって、それに彩色するpaintmuseum(描画館)などは、子どもがする塗り絵と変わりなく、とても独創的創作とは呼べない。文章にしろ専門的知識は文献等から拾ってきている。敢えて言うなら、写すという作業である。
 例を上げると、写真は実態そのものではなく、被写体の一部を切り取ったもので、作品の価値はシャッターチャンスにある。絵の場合も風景や人物の構図が出来を左右する。文章の場合も、このように経験から出てくる実践的なものから、暦や行事など伝統的に引き継がれたものを織り込むなど、実に多様であるが、習作とは言え、シャッターチャンス同様表現するものの訴求力の強さによって評価が分かれるのではないだろうか。
 私が毎日している作業は、生きている中で何を切り取って独自の形に仕上げるかということである。従ってライフワークとは毎日の生活の中で見つけ出す、ほんの一瞬のシャッターチャンス(切り取る選択)を見逃さぬようにすることが大切になる。
 活動できる時間を線に例えれば、その長さが私にとってはそれほど長く残されていないのは確かである。その短い線の中でどれだけ多くのシーンを切り出し、脚本を書き、演出して作品とするかが、自ら選んだライフワークである。それ故平凡な一日の中に「一日にライフワーク」を成し遂げていけるように、生活のフォームというか課題というかテーマとでも言うものを、生活の「枠」として定めている訳である。とまあ大げさに言ったきらいがあるが、言ってみれば「心の遊び場が大きく広がってますよ」と言いたいのが本音である。

2016.1.5 レンズmono
 私たちの身の回りには、レンズに関わるモノが数多く存在する。これまでもそれらの製品は多く取り上げてきた。今回は今年一年をよく見通せるようにとの願いを込めてレンズをテーマにした。
 レンズ製品は、先ずメガネを筆頭にカメラ、拡大鏡(ルーペ)望遠鏡など色々ある。 
 これから手始めに取り上げるレンズ製品の代表格の老眼鏡も2013年10月8日に紹介したことがある。今回は視点を少し変え、レンズとしてのメガネを取り上げてみた。
 これらの製品は、レンズを使った道具の一種である。使い方によって形は違うが、人の目に入る光の量や網膜に写る映像を加工するということでは共通の働きをする。それぞれの機能によって形状や構造が異なる。
 メガネにしても一見単純な形ではあるが、人の顔の形や目の具合は異なるので、求める人の目に合わせて加工されたものが揃っている。
 前にも紹介したが、1台ですべてすっきりすれば問題ないのだが、何本も使い分けるようになる。物を書くときの近距離の老眼鏡、テレビを視る時の中近用、外で使う遠近両用と言った塩梅である。
 一番単純な老眼鏡は100均ショップでも売っている。品質はともかく、見えることは見える。老眼の度合いによって、大体次のように分類されている。
 度数目安表というのがあるので、それに基づいて説明する。これは老眼度数と年齢の目安を基準にしている。
 75歳以上は+4.5(これは殆ど入手困難)、70歳以上は+4.0、65歳以上は+3.5、60歳~65歳までが+3.0とまあ大体こんなところが老眼鏡と言えるだろう。 
 無論市販の老眼鏡は物を読んだり書いたりするときしか使えないので、普段は遠近両用のメガネを持ち歩いている。これは細かい検査をして、軽い(レンズも薄くフレームもチタンなどの軽い素材)ものを誂えれたものだ。それぞれ一長一短があり、もともとが遠視なので歩くときはかけない方が多い。今回はメガネで終わってしまったが、機会をみてレンズmonoは書いてみたいと考えている。

2016.1.8 小正月
 昨年1月4日のコラム「七草粥」を読むと「この歴史は古く平安時代に遡る。神事の一つで七草の若葉を入れた粥を神に供えて無病息災を祈念したと伝えられている」このコラムでは「今年は本当に景気が回復してほしい」という言葉で締めてる。
 昨年は気象面でエルニーニョによる異常気象が続いたが、景気面ではそれほどのダメージは受けなかったようである。
 今年は春先から普通の年に戻ると気象庁では見ているようだ。
 さて、小正月に話を切り替えると、お天気と農業とは切っても切り離せない関係にある。
 古来農耕を中心にして生活が成り立っていた日本では、当然な話ではあるが、気候の安定を祈る神事・祭礼が年中行事として定着している。特に正月には色々な神事が重なる月である。
 今回はそうした神事の数々が執り行われる小正月についてまとめてみた。
 年中行事大辞典によれば「1月14日から15日の初満月をを中心とした正月のことを小正月と呼ぶ。そして満月に当たるところから望(もち)の正月と呼ぶこともある。この小正月が終わると1月20日をもって年神様を送るとされている地方が多い」
 先にも記したが、小正月は主に農耕に関わる予祝や豊穣を祈る多様な行事が伝えられている。これは国学者の柳田国男氏の説であるが「在来の正月行事を2つに分けて、主として表向きの半分を元日の方に移し、残りの半分は旧来の年越し、すなわち14日の夜に行うように残したものと考えた。従って小正月には大正月に比べて呪術的な行事が多く行われており、大正月を男の正月というのに対して小正月は女の正月と称している」
 小正月の特徴は、奈良時代の朝廷行事の一つ、正月の満月の日に、文武百官に御竃木(みかまぎ)を進ぜさせたということに始まり、民間にも広く伝承されていったと考えられている。
 小正月の行事と言えばその火祭りが特徴である。左義長、道祖神祭ほか中国地方以東ではどんど焼きと呼ばれ、その火で道陸神(どうろくじん)とか道祖神(さいのかみ)などと呼ばれる藁人形の神様を焼く行事がある。この神様がこれからの一年間に病気にする予定の村人の名前を書いた帳面を持っているので、それを焼いて無病息災を祈るのだと語り継がれている。個人的にも、今年が平穏無事な一年であることを祈りたい。
 このほか小正月にはこうした祭りが目白押しで、「時の風物詩」の紙面を賑わすことになるだろう。

2016.1.11 スロウダウン
 古くからの友人も歳を重ね、年賀状などでスロウライフを楽しんでいるという便りが目立つようになった。
 スロウライフとは急がずに毎日を楽しんで生きるということらしい。高齢化は当たり前の話だが、肉体の老朽化が進むこととも考えていいだろう。
 若い時のように飛んだり跳ねたりは論外。否が応でも動作は機敏さを欠き、行動がスロウダウンせざるを得ない。自ら選んでそうなる訳ではなく、自然にそうなってしまうのだ。
 無論個人差はあるが、同世代の仲間は大体動作が鈍くなったと言う。こうした元気な人に比べハンデを背負うことになるスロウダウン現象も、悪い面ばかりでなく、良い面もある。良い面は本人が自覚しないと感じ取ることはできないことだ。
 例えば、歩くのが遅くなるとその分、周りの景色を観察する時間が増えることになる。今までの視野の中では見逃してしまったような光景を見つけ出すことがある。
 「生物百様」で描いているような道端の野草などは、通勤していた時には目もくれなかった地味な存在に過ぎなかったものが、足もとに気をつけて歩いていると、自然に視野に入り、その可憐で小さな花の話しかけるような囁きが聞こえてくるようだ。
 大通りでは見られない、路地裏のささやかな彩りは清々しいものである。
 スロウダウンするということは、視野を広げるだけでなく、ものの考え方にも及んでくるものだ。 ゆっくり考えると、耳もとを通り過ぎていった言葉の中に、見落としたり、聴き逃してしまったことが、別の顔をして見えてくる一面があることに気付く。
 言葉には表の顔と裏の顔がある。額面通りが表の顔で、裏に企みや目論見を含むのが裏の顔である。
 今年は国会が異例の1月4日から始まったが、そこには政局という裏の顔に対する思惑が、誰の目にも透いて見えるのが、その好例である。
 余裕を持って物事を見るようになると、そうした言葉の中に潜むカラクリが見えてくる。生きていくということは、一筋縄ではいかないということが分かるだけでもスロウライフもまた楽しきかなである。

2016.1.15 日常のあいさつ
 コラム「日本の文化( 2015.11.7)」でも少し触れたが、今回は「日本人の日常のあいさつ」を取り上げる。
 日常私たちが取り交わすあいさつは、同じ内容でも、目上の人や同僚、異性に対する対応は微妙に異なる場合がある。色々な例を引いて、その違いを探ってみることにする。
 同じ意味を持つあいさつ(挨拶)に関しては、類語辞典などにも載っているが、その使い分けについてはっきり解説したものは見つからなかった。
 そこで、個々の表現については類語辞典を参照しながら、手探りでまとめていく作業になってしまった。
 先ず朝のあいさつから入ることにしよう。朝のあいさつは「おはよう(お早う)」が一般的だが、「お早うございます」が丁寧な表現である。男友達同士では「おっす」で済んでしまう。これらは対人関係によって使い分けられるところが面白い。
 昼になると表現が変わる。広く使われる言葉が「こんにちは(今日は)」である。この語源を探ると、「今日は結構なお日和(ひより)ですね」という言葉の下の部分を略した形。したがって最後の「ワ」と発音される部分は「は」と書き表すのだという(国語辞典:旺文社)。
 「こんにちは」にしても省略形が見られる。「チワー」などと短くしてしまう。なぜか「コン」ではない。コンという音が狐の鳴き声や人の咳の音と似ていてコンラン(混乱)するせいかも知れない。英語のハイ(hi)などは、「チワー」に似た簡略なあいさつの言葉である。「挨拶は短ければ短いほど良い」とはスピーチの話だが、どこの国でも親しい間柄では、こうした簡略な言葉が交わされていることであろう。
 夜になると「こんばんは(今晩は)」に変わる。これは昼間のあいさつに比べ、方言が豊富で「おばんです」など、それぞれの地域で異なるようだ。
 次は別れる時のあいさつは「さようなら(左様なら)」が最もポピュラーだ。他の表現としては「さいなら」「さらば」「あばよ」「またね」「失敬」「失礼」「御機嫌よう」「バイバイ」「ハイチャ」と実に多彩である(類語大辞典:講談社)。
 今回はこの辺で「さよなら」するが、まだまだあるので、近い内に続編を書こうと考えている。

2016.1.19 日常のあいさつ(2)
 前回紹介したように、日本では日常のあいさつは非常に多様であるので、引き続き思いつくままに、取り上げていくことにする。
 お礼の言葉に属するものに「どうも」という言葉がある。実は本来この言葉は「どうもすいません(林家三平さんで有名)」と次に続く言葉があってまとまるのだと思うのだが、何故か「どうも」と単一でも使われる。婉曲になると「どうも、どうも」と重ねたりして使う。非常に重宝な使い方が出来、本来の意味は「時間帯に関係なく気を使わなくていい人に対する軽いあいさつの言葉」と一応の定義はあるようだ。
 「どうぞ」などもそれに似た使い方で「どうぞ、どうぞ」などと重ねることもある。意味としては許可に類する言葉と言えよう。
 「さよなら」も「お疲れ様です」という風に変わる。これもいくつかに変化する「お疲れさん」「お疲れ」のように人間関係で変化する。
 「ご苦労様」は目下の人に対する労をねぎらう言葉で「~明日もよろしく」と続けて使うのが一般的で、目上には使わないとされているが、その辺の使い分けは混乱している。
 「お世話になります」「お世話様でした」「世話をかけて申し訳ない」など、あれこれ人に頼って必要なことをしてもらった時のあいさつである。同様な意味では「面倒をおかけします」「お手数おかけしますが」「お手間を取らせます」「厄介になります」などを上げることができる。
 感謝の言葉の最たるものは「ありがとう」だと思う。この言葉は方言が多く「ありがとう」の言葉がない別表現の地域を上げてみると次のようになる。山形県「もっけ」福島県「たいへん」「してもらって」愛知県・福井県・大阪府「おおきに」岐阜県「うたてー」そして「きのどく」は石川県・福井県・富山県でも共通。新潟県「ごちそうさまです」 富山県「ごちそうさま」新潟県「ごちそうさまです」 富山県「ごちそうさま」石川県「ようした」鳥取県「ようこそ」山口県「たえがとうございます」高知県「たまるか」島根県「だんだん」熊本県「ちょうじょう」沖縄県「にへーでーびる」など中には全く想像もしない言葉があるのに驚かされる。
 2回目はお礼のあいさつを中心に解き明かしてみた。3回目は出かける時のあいさつや帰宅時のあいさつなど幾つか残ったフレーズを取り上げることにしたい。

2016.1.23 日常のあいさつ(3)
 思い浮かぶままに取り上げてきた日常交わされる「あいさつ」の言葉も最終稿となる。残った言葉は「いってらっしゃい」「おかえりなさい」「いただきます」「ごちそうさま」など。これらについてどんな言い回しや方言かあるのか、少し詳しく調べることにした。
 「いってらっしゃい」は「お気をつけて行っていらっしゃい」の簡略形のようである。お国言葉で表現すると、山形県「きーつげで、えっしゃえ」となり、いかにも東北地方を偲ばせる言い回しである。静岡県では「いっちませい」といういい方があるようだ。「ませい」という語尾は一種の丁寧語の命令形だそうである(Goo辞書)。キツイ表現に置き換えると「いってこい」になってしまうので、あいさつが喧嘩の元になりそうで、怖くて使えない。
 お叱りを受けることを覚悟で続けると、岐阜県では「いっておんさい」という言い方があるが、「おんさい」と変化するのは、 美濃弁(みのべん)と言い、岐阜県南部の美濃地方で話される日本語の方言なのだそうだ。大阪では「ほな、いってきーや」とこれは河内弁か?
 つぎのあいさつは「おかえりなさい」であるが、これは人を迎える時に使う。簡単に「お帰り」とくだけた表現をすることもしばしばある。関西方面だと「おかえりやす ・ お戻りやす」などと柔らかい言い回しになる。確かにこうしてみると関東はキツイ表現。関西は柔らかい表現に聞こえるかもしれない。
「いただきます」「ごちそうさま」は食事のときに使う言葉。「いただきます」は「 ゴチになります」「 頂戴します」などとも言う。 また、「ごちそうさま」は「ゴチソウサン」「 ごっそさん 」「 ごっつぁんです」などという言い方もある。
 以上だらだらと書き連ねたが、紹介した「あいさつ」の言葉はほんの一部に過ぎない。それだけ日本人は昔から「思いやり」を大切にしてきたんだなと書いていてつくづく思う。
  武道の世界では「礼に始まり、礼に終わる」と言われるが、普段の生活の中で「あいさつ」は潤滑油のような働きをしているのだろう。 

2016.1.26 電池その1(mono)
 人目のつかないところで活躍するmonoがある。今回取り上げる電池(バッテリー)などは、その最たるものである。
 今日では電池なしの生活は考え難い。たぶん不便この上もないことだろう。
 自分の身の回り見渡してみよう。普段身に着けている腕時計(一部手巻きもある)や携帯電話は、ほとんど電池で動いている。
 電池は用途によって形状も種類も違う。一応電池なるmonoとはについて簡単な説明をしておく(電池工業会HPより)。
 大別すると二種類ある。乾電池や充電式電池は、内部の化学反応によってエネルギーを取り出す化学電池といい、太陽電池は物理的なエネルギーを電気エネルギーに変換する物理電池という。これらを更に細かく分類すると、使い切りの電池を一次電池と呼び、マンガン電池、アルカリ電池、酸化銀電池などが上げられる。二次電池と呼ばれるものは、充電式電池や蓄電池など充電すれば繰り返し使える電池のことを言う。
 二次電池は、更に三つの枝に分かれており、一番目の枝は鉛蓄電池というもので、自動車のバッテリー(旧来型)に代表される。二番目の枝はアルカリ蓄電池に属するもので、ニッカド電池、ニッケル水素電池などが上げられる。三本目の枝はリチウム二次電池と呼ばれるもので、リチウムイオン二次電池、リチウムポリマー二次電池、コイン型リチウム二次電池などを上げることができる。この他に化学電池として燃料電池、物理電池として太陽電池などを上げることができる。形状はそれぞれ異なり、円筒形のもの、コイン型のもの、ボタン型のもの、ガム型(板状)のものなど様々だ。同じ形でも単3、単4などと大きさの違いもある。
 ここで話を身の回りの電池に話を戻すが、紙数の関係で、次回に譲ることにしたい。

2016.1.30  電池その2(mono)
 話を自分の身近なところで使われている電池について、夫々のグッズに分けて、見ていくことにしよう。
 普段使っている腕時計などは、ボタン電池で動くクォーツ製のモノや太陽電池で動かす電波時計などがある。時間調整には手が掛からないが、忘れた頃に電池を交換したり、お日様にあててやらないとエネルギー切れを起こしてしまうことがある。スマホや携帯電話(ガラ携などと時代遅れな呼ばれ方をされているモノ)は、中にガム型のリチウム電池が入っており、使い方にもよるが、かなり頻繁に充電してやる必要がある。
 私にとって取材に欠かせないカメラも、フィルム式は姿を消し、SDカードなどのようにデジタルメディアに記憶するため、電源として充電式リチウム電池が主流となっており、これは取り外しが簡単で充電器も付属しているので、予備のバッテリーを充電して携行していれば、電池切れでシャッターチャンスを逃すということもない
 家の中にあるグッズで電池を使うものはいっぱいある。先ず私の生活に欠かせないパソコンも棒状のバッテリーが付いており、フル充電すれば連続で4~5時間は保つので、持ち歩いて作業することができる。ウッカリ電源ケーブルを抜いてしまっても、それまでの作業がフイになるという悔しい思いもしなくて済む。
 最後にLED照明源としての電池をみて締めくくることにしよう。最近の懐中電灯はLEDが主流になっている。電気を食わず明るいのが特徴で100m先でも照らすことができるものもある。電池はアルカリ乾電池の使い捨てのものや充電式のリチウムイオン電池のどちらも使える。LEDの数は1~20箇ぐらいのものまであり、用途によって選ぶことができる。私はキーホォルダに、小指位の小さなLED電灯をぶら下げており、これは鍵穴だけでなく、暗い夜道の足元を照らすのに十分役立つ。電源は豆粒ほどのボタン電池2個となっている。家の中でも夜中の足元を照らす、人感式センサーのついたLED電灯が2箇所に設置してあり、暗闇で何かにぶつかったり、引っかかることもなくなった。これはアルカリ単3か単4が使われており、結構長持ちする。
 今では、このように電池抜きでは生活が成り立たないほどの必需品となっている。