説明文は「別冊太陽ムック北斎富嶽三十六景の旅」より引用
神奈川沖浪裏
富嶽三十六景の富士山は、国の象徴、美の象徴と考えられている。そこで主題である富士山は画面の背景として必ず描かれている。
この絵は本来雄大なはずの富士山は小さく描かれ、前景の大波の豪快さと対比させている。
地平線付近の暗い色と上空の積乱雲は嵐を示しており、画面内には大波に翻弄される3隻の船が描かれる。この船は当時活魚輸送などに使われた押送船である。
船ごとに櫂にしがみつく8人の漕ぎ手が居り、船首には2人以上の乗客が見え、画面内に居る人間は約30人である。人々は船の中で硬直し、動的な波との対比を見せている。
海は荒れ狂い、波の波頭が砕けるその瞬間を切り取っている。波の曲線は弧を描き、背景の富士山を中心とする構図を形作る。波頭から飛び散る波しぶきは、まるで富士に降る雪のようでもある。奥の舟と波高はほぼ等しく、押送船の長さは一般的に12mから15mであり、北斎が垂直スケールを30%引き延ばしていることから、波の高さは10mから12mと推測できる。
凱風快晴
「凱風」とは『詩経』にある言葉で、夏に吹く柔らかな南風を意味する。本図は「赤富士」と通称され、夏の早朝に日を受けた富士の山肌が赤みを帯びた一瞬の様子を捉えているとされる。
本図の視点は甲斐国側か駿河国側かは不明であるが、「山下白雨」とともに富士を大きく正面から描いた作品で、画面下には樹海、空にはいわし雲が描かれ、富士の山頂には雪渓が残る。
通称「赤富士」とは、夏の早朝もともと赤みを帯びた富士の山肌が、朝日を受けて赤く輝く現象が起こる。その赤く染まる一瞬の様子が、簡潔な構図と色彩で伸びやかに描かれている。
赤く染まった富士だけという単純な本図の構成には、北斎自身の鮮烈な視覚が見事に再現されている。
東海道金谷の不二
箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と詠われた東海道最大の難所である大井川。現在の静岡県金谷町である金谷の宿から、対岸の島田の宿、現在の島田市が見える。江戸時代、架橋、渡船が禁じられていた大井川では川越しの人足や馬の背に、荷駄や人を乗せる徒渡し(かちわたし)が行われていた。まるで、海のように波打つ川を、金谷宿と島田宿の双方から徒渡して往きかう旅人や荷駄が描かれている。向こう岸には堤防が波のうねりと呼応するような形で描かれている。
まるで海のように、うねりのある波が打ち寄せる。変幻自在な水の動きを北斎ならではオーバーな表現で描写している。登場する人物の多さでは一番の作である。
本所立川
立川は萬年橋の架かる小名木川に並行する掘割、竪川のこと。この辺りは木場を控えて材木問屋が集まっていた。北斎は北側の相生町のニツ目之橋辺りから西南西に富士をとらえている、製材された丈高い材木の間から遠慮がちに姿を覗かせる富士に比べ、鋸を挽く職人や木片を投げて渡す職人たちが生き生きと描かれる。
材木置場の看板に「西村置場」、材木に「馬喰丁弐丁目角」「永寿堂仕人」「新板三拾六不二仕人」と方き込み、版元と本シリーズの宣伝をしている。
相州梅沢左
今の神奈川県中郡二宮町。梅沢左は「庄」または「在」を彫り師が「左」と誤刻したと考えられている。梅沢自体は東海道の大磯宿と小田原宿の問の立場(人馬の休息所)であろ。古くから梅樹が多く、地名の由来となったという。手前に五羽の丹頂鶴と霊峰富士を目指して飛ぶ二羽の鶴を描くだけ。富士と鶴は吉祥の画題であり鶴の七羽という数も縁起がよい。この地の実景とは思えず、正月にふさわしいめでた尽くしの図に仕立てたのだろう。
東海道程ケ谷
程ケ谷(保土ヶ谷)の宿を過ぎてまもなく、難所の権太坂にさしかかる、かなり急なこの坂を上りきると武蔵国と相模国の境であり、そこからの下り坂を品濃坂という。『江戸名所図会』は、ここを両側に松の並木が見事である。坂の上から右には富士を望め、左には鎌倉の遠山が望める景勝の地であると伝える。本図はまさに松の樹間に富士を望むこの坂を描く。馬子の視線が富士ヘ導き、草鞋を直す駕脆舁のしぐさや道を急ぐ虚無僧の姿など、画中人物のしぐさの描写も細かい。
相州仲原
仲原は現在の平塚市中原で、大山寺への参詣道の人口であった。富士の手前に大山が描かれ、画面手前の板橋脇に石の道標が建てられている。おそらくその上部には大山寺の本尊不動明王が彫られている。
そこを六部(厨子を負い鉦を叩いて物乞いし諸国を巡礼する)の親子が通る。その先には畑に向かう農婦や行商人などを描き、川で漁をする人も描く。大山詣では6月から7月の間なので、その時期に描かれたものだろう。
武州玉川
武蔵国の玉川は府中の玉川(多摩川)である。調布辺りの風景か。
川を斜めに配することによって流れの早さを感じさせ、不定形な線を重ねることにより美しい波紋を描き、対岸近くから藍をぼかし摺りにすることにより清らかな水質を感じさせる。中景にすやり霞を帯状に大胆に配して遠くに見える富士の距離感を出そうとしている。
手前中央の馬子と、川を渡る船頭の視線が富士へ導く。馬は頭を深く垂れて三角形を作り、手綱に藁沓を下げて逆三角形を作っている。
御厩(おんまや)川岸より両国橋夕陽見
台東区蔵前二丁目辺りの隅田川岸に、幕府の御厩があったので、この辺りを御厩川岸といった。対岸の本所一丁目とを結ぶ渡し場があり、北斎はそこを描いた。
本所側から御厩川岸に向けて、渡し船は今まさに出発した。手前に大きな波が生じ、美しい藍の線で荒波が描かれる。対岸や左手の両国橋は沈む夕陽の逆光でシルエットとして表される。輪郭線のない無線摺という技法である。
船頭の頭を回転軸として両国橋と船の視線が点対称となり、船頭の視線の先に富士が見える。
駿州片倉茶園ノ不二
今の静岡県富士市。駿河国が京都の宇治とともに茶の名産地として聞こえたのは今も昔も変わりはない。東海道駿州に片倉という地名はあるが、茶園で知られるというわけではない。
摘み終えて籠につめて運ぶ男たちの茶葉は緑色に描かれるのだが、茶畑は黄色である。周辺の樹木の緑と同化させないための北斎の改変か。いずれにしろ茶摘みには大勢の人手が必要であった。 摘まれた茶葉は右手前の建物に集められる。背後の富士には雪が多く残っており、春の新茶摘みの様子と思われる。