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 改訂版 生活六考


 日常生活に欠かせない衣食住のほかに、私の独断と偏見で選んだ、健康、労働、学習の3つ健・労・学を加えて、生活六考と名づけて考察してみる。
 生活に欠かせない事柄は他にもあると思う。例えば「金が一番だよ」という人もいるだろう。その辺は、労働の対価として金はあると考えていただきたい。
 ここの事項に入る前に、夫々について、そのポイントについてまとめてみることにしよう。
 衣とは衣料品のこと。生活に着るものは欠かせない。これらは季節や天候・気温の変化にも左右される。下着から上着までだけでなく、靴下やハンカチに加え、帽子などを入れるとその品数は多く、家の中のスペース占有率は相当なものになる。
 次に食であるが、これは三度の食事から飲物、間食の類いまで入れると、両手の指の数を超えることになるだろう。
 住は住居のこと。一生働いてやっと手に入れた最大の財産。持ち家はついの棲家となるもので、狭いながらも楽しい我が家と言ったところか。
 新たに加えた、健は健康のこと。このことは特に70歳の坂を超えた頃から、急速に維持が難しくなってきている。この手の話題はコラムでも多く語ってきたところだ。普段の心構えなどに触れてみたいと考えている。
 労は労働のこと。これは最初にも触れたが、対価を求めるもので、それが生活全般の源泉になることは言うまでもない。今は年金や高齢者向け保険制度、市の高齢者優待パスなどの恩恵により労働の機会も減ってはいるが、対価を求めない労働サービスに参加している高齢者も多い。動けるうちは動いた方が良い。
 学は学習のこと。学ぶことに目覚めたのは、つい最近もこと、このホームページを公開するようになってからだ。雑文とは言え、思いつくままに書けるというほどの知識はない。色々調べることが、学ぶにつながっている。これは描くという作業にも共通している。終生学び続けることが生きている証ぐらいには思っている。(2015.5.18)

1.生活六考(衣)
 生活六考最初は、衣(衣服と身の回り品を含む)について考えて見ることにする。
 原始の時代から人は身を守るために、体に纏うものを付けて生活してきた。
 時代の変化と進歩に伴い、それは大きく変貌し続けている。革から繊維へと変わり、素材や機能性が追求され、より快適なものへと技術の革新が進んでいる。
 戦国時代には、甲冑などといった今では不要なものが、武士の世界では欠かせなかった。今でも博物館に行けば見ることができるが、位に応じて華美で芸術的造りであり、それは今の時代でもブランド品という名に変わって生き続けている。
 現代は素材革命により、安価で軽量かつ機能的な衣料が簡単に手に入る。ユニクロのヒートテック、ゴアテックスのレインウエア、ケプラーの防弾ベストなどは素材革命の代表格といえよう。
 日本製と中国製といった価格の2極化も進んでいる。贅沢を言わなければ、中国製で十分事足りる。
 最近聞かなくなった言葉に「一張羅(いっちょうら)」という言葉がある。これは「着たきり雀」とう言葉にも通じる。いつもそればかり着ているもので、他に選択肢がない着方で貧困の極みの言い換えともいえよう。 現在では着るものに事欠く状況は、わが国では殆どないだろう。子どもの頃当たり前だった、お下がり(おさがり)という言葉も消えてしまった。兄から弟へ、姉から妹へと引き継がれていくのが、お下がりである。当然下に行くにつれ、つぎはぎで生地も痛んでくる。仕立て直しは母親の仕事で「母さんが夜なべして編んでくれた」ではないが、何かそんな時代があったということは、今の若年世代には信じられないだろう。
 さて、身の回りを見れば、社会人時代の背広と服飾類が沢山残ったままで、洋服ダンスや衣装箱の中で眠っている。もうあまり使われる機会はないだろう。そうした無用化した衣装類で我が家の狭いスペースはさらに狭くなっている。これも飽食の時代のせいなのか。(2015.5.22)

2.生活六考(食)
 最近テレビでは必ずと言ってほどグルメ番組に出合う。特にB級グルメ番組は大衆路線を狙っているので、それに触発されて放映された店には長蛇の列ができる。これは食に対する興味なのか、物見高い人間の性(さが)なのか定かではないが、人の食に対する関心(欲求)は、幾つになっても衰えないものだ。
 先の大戦の少し前に生まれた私には、食は「ひもじさ」の記憶に直結する。その反動もあり、飢えを凌ぐために食べた食物に嫌悪感があり、懐かしさは無い。従って、今食べたいものを食べるという傾向が強く、どちらかと言うと偏食気味だ。甘い物に飢えていたため、その方には目がなく、挙句の果てに生活習慣病に罹り、食の制限と管理下にあるというのが実情だ。
 最近ではそれにも慣れ、出されたものには注文を付けずに食べるし、間食も減った。当初はストレスを感じたが、人間とは直ぐに環境に同化できるようだ。
 食は生活の基本であるので、何でも美味しいと思って食べるのが一番だが、贅沢な話「喉元過ぎれば・・」の例えを、このコラムで書いたが、妙に味に敏感になってしまい、今流行の「うまみ」を求めたりするのは贅沢か。
 「衣食足りて礼節を知る」という諺がある。この意味は「生活にゆとりができて、初めて人は礼儀に心を向けることができるようになる」であるが「昨今の世相に見るように、物質的な充足が必ずしも礼儀正しい秩序を生むとは限らない」(明鏡ことわざ成句使い方辞典)これには同感である。
 確かに自分にしても、衣食は足りているが、礼儀を重んじるように変わったかは疑問がある。どうも昔の向こう三軒助け合った時代のほうが、礼儀も作法も重んじられていたように思えてくる。その辺のことについては「学」の項目に譲るとして、毎日食べていける今に感謝することにしよう。(2015.5.25) 

生活六考(住)
 生活する上で、屋根の下で暮らすのが「住」である。住の語源を今回「字源」で紹介しているが、人と灯火との組み合わせによるとある。確かに夜一つ光の下に家族が集う姿が目に浮かんでくる。
 私は結婚するまで生家で暮し、世帯を持って初めて、自らの意志で転居した。とは言うものの公舎住まい(役人だった)であったが。これがひどいオンボロな住まいで、常々どこかに自分の家を持ちたいとは考えていた。折しも近所に手頃なマンション(狭い共同住宅だが)が建造中で、これなら場所的には駅にも職場にも近く地理的条件が良かったので、ローンを組んで、初めて我が家というものを手に入れた。
 自分の家を持つということは、このシリーズのはじめにポイントととして示したように「一生働いてやっと手に入れた最大の財産。持ち家はついの棲家となるもの」なので、サラリーマンにとっては、ローンという大きな荷物を長く背負い込む覚悟での決断となった。
 引き換えに、それまで比較的気楽に旅行したり、買い物をしていたという「余裕」というものが消えてしまった。それはいいとして、考慮が足り無かったのは、孟母三遷の教えではないが、子供にとって教育環境を考えて選ぶということを忘れていたことだ。進学などを考えると、転居の場合、これは大切な要素になる
 マンション住まいにも問題はある。今更どうにかなるということでもない。共同住宅に住むということも色々な制約があり面倒なことも多い。従って一時しのぎに住む人も多く、頻繁に引っ越しがある。
 それらを見ると、人の戸建志向の強さがうかがえる。特に長男には家を構えるという意識が見られ、住むということにも、家を継ぐということを考慮すると、結構ややこしいものがあるようだ。
 私などは今の場所で一生を過ごすことになるだろうから、これからはため込んだ余計なものは整理して、狭楽しい生活を確保したいなどと、とても出来そうもないことを考えている。(2015.5.28)
 
生活六考(健)
 このコラムそのものが、自分の生活に活を入れるために始めたもので、年齢的にも後期高齢者の仲間入り直前だったので、身体の方は結構くたびれていたのはやむを得ない。
 今回のコラムにしても、自分の身体を検証しながら書いているので、必ずしも標準的健康体を基準にして語るわけではない。老後の健康をどうコントロールしていくかについて考えることになる。
 2015年5月26日付日経新聞に興味深い記事を見つけた。日本福祉研究チームが2003年10月から10年間にわたり、愛知県に住む65歳以上の男女12,000人に対する健康追跡調査を行った。それによれば「その内約3000人が死亡、約2300人が要介護2以上、約2000人が認知症」という結果が出た。65歳以上というので何歳までが対象か分からいないが、約6割が死亡を含め、大きな障害を持つということだ。丁度私の年齢が対象になっているので、周りを見渡すと、この数字は頷ける。同級生でどこも悪くない者など見当たらないし、毎年会うことになっているクラス会も、何人足を運んでくれるか、期待は持てない。
 なお、この調査では認知症に罹る人の発病率は、人との交流が少ないほど発症率が上昇すると結論づけている。つい最近にも書いたことだが、苦しくても人との接触を保つことが、健康を保つ秘訣なのかもしれない。 それともう一つ大切なことは、何か肉体的にも、精神的にも習慣的に行動することが欠かせないと私は考える。生活に刺激は必要で、何の感動もない日常は徐々に人を蝕んでいくように思えるのだ。「憎まれっ子世に憚る」の喩えではないが、元気なお年寄りには、そのくらいの頑張りを見せて欲しいものだ。(2015.6.1) 

生活六考(労)
 先ず労働の質について考えてみよう。
 人は職という名の形で就労する。生まれた環境や、持って生まれた才能が伸ばされる機会に恵まれた人は、家業を継いだり、芸術の道に進むことになる。
しかし、大半の人は企業に就職したり、公務員になったりする。
 私なども特別な才能や技術があるわけではなく、なんとなく公務員になった口だ。
 これを労働の質という観点で見ると、特に専門性もなく、普通に真面目に仕事をしていれば、毎日は平穏に過ごしていくことができるものであって、好き嫌いを言える身分でもない。違った分野に転勤させられるのは当たり前の世界だ。無事定年まで勤め上げ、人並みの生活もできた。
 労働は対価のためにあるといっても過言ではない。普通の人の「労」とは、このように、生活の一手段とも言えるだろう。
 ある意気込みと目的を持って仕事を始める起業家という人も最近は多く見かける。これらの仕事はハイリスク・ハイリターンで失敗の確率が非常に高い。高い志を持って始めるのもいいが「出る杭は打たれる」の喩にあるように足を引っ張るものも多い。
 こうしたこともあり、高学歴者は未だに職場として大企業や官庁志向が根強い。そこに就職すれば、高い報酬とやりがいのある仕事が待っていると信じているのだろう。その結果豊かな生活を享受できる者も多いのは確かだ。
 これで完結してしまうと、人生それほど面白いものとは見えなくなる。情報化とかイノベーションと言われて、従来型の労働環境が少しづつ変わってきている。質の変化である。都会一極集中から、Uターン、Iターンといった地方への労働力拡散の動きが出てきているのは喜ばしいことだ。とは言いながら、基盤的には弱い仕事なので生き残りが難しいのも事実。折角出始めた芽を、国や自治体の力と知恵で、多様で安定的労働環境が定着することに期待するとしよう。(2015.6.5)

生活六考(学)
 学ぶということを語るとなると余りに範囲が広すぎる。今回も自分の身に振り替えて「学ぶ」ことを考えることにする。
 知識を取り入れることが学ぶの基本となるが、これにはいろいろな手法がある。
 私の場合、本から得るのが殆どであるが、人から話を聞いたりネットで仕入れたりする場合もある。
 今もこうして物を書いているが、これもこれまでに学んできたものを、断片的に引き出して、それにちょっと味付けをして創作という形を取っている。こうした知識の断片と自分の考えを合わせる加減は微妙で難しいものがある。
 ここで考えるという言葉が出てきたが、考えの素は当然仕入れた知識に負うところが多いが、それだけでは自分の考えではなく単なる受け売りに過ぎなくなる。下手をするとコピーしただけになってしまう。
 際どいところで、そのようの色合いの強い文章になってしまう場合もある。自分らしい考えとしてまとめるのは、それほどに難しい。
 学ぶ習慣が身に着いたのは、最近のことで、このコラムを定期的に書くようになってからである。そのコラムにしても、老後の暇つぶしのつもりで始めたものだ。ところがホームページは更新が生命線であり、できるだけマメに行わないと、人の目に留まらないことになる。無論内容が伴うのが大切なのだが、そのところはあまり自信がないが。それだけに取材を通じて多くを見聞(学ぶ)する必要がある。
 私にとっては、その辺のところは、テーマという目的を持って臨むことができるので、そうした行動することが楽しい。実体験を通して学ぶことが、考えたり、創作する原動力になっていることは確かだ。(2015.6.8)-完‐ 





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