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山手散歩2016(3)居留地のあった街


 山手散歩3回目はタイムスリップする山手の洋館群を紹介する。
 山手地区には多くと住民が住んでいるが、一帯は公園化しているように見える。明治時代の建物はすべて関東大震災で破壊され、今の姿は復元したものや移築したものをこの地区に集めたものである。歴史的背景などにも触れながら散策することとしよう。折しも明日は、開港記念日で横浜港が安政6年6月2日(太陽暦で1859年7月1日)に開港された日である。開港時には特にこれを祝う行事などは行わなかったが、翌年6月2日に開港1周年を記念して民衆が山車などを繰り出して祝ったのが、横浜の開港記念日の始まりとされている。現在は毎年6月2日が横浜の開港記念日と定められており、横浜市立の小中学校・高校のほとんどが休校日となる。
 開港と 外国人居留地は密接な関係にあり、開港とともに訪れた多くの外国人商社マンが住居を構えたのが、居留地であり、そこに今見るような洋館が立ち並んだという。その有様が再現されたのが山手の洋館群なのである。
 港の見える丘公園を出るとすぐに岩崎ミュージアムがある。この場所にはゲーテ座という劇場があり(1885年:明治18年)、そのことを示す掲示板が現在もその存在を示している。「生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ」のセリフで有名なシェークスピアのハムレットやベニスの商人が演じられ、多くの明治の文豪たちが集ったという記録がある。
 この建物の前にあるのが外国人墓地である。ここには 19世紀から20世紀半ばにかけての40ヶ国余、4400人余りの外国人が葬られている。
 外国人墓地の向かい側にあるのが山手十番館で、1967(昭和42)年に山手に住んでいた当時の「勝烈庵」グループ初代会長が、散歩の休憩場所がほしいと思ったことがきっかけで、明治100年を記念して建てた。山手を観光地化している主な建造物のひとつ。 横浜開港時代の外国の商館の呼び名からその名をとった「十番館」と名付けたレストランである。この庭が四季の彩を映す花で飾られており、観光客を集めている。夜はライトアップされ更に艶やかな姿を見せてくれる。
 山手には○○番館という数字で呼ぶ建物が多い。これは、居留民の人数を記録したジャパンヘラルド社が、明治初年のディレクトリに一、二、三の漢字が地番として記載されており、横浜の人は面倒な英語の発音で商館名を呼ぶのでなく、地番で呼んだことに起因すると言う。(続く)

(ムービーでご覧ください)」


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