秋好日久しぶりの晴天。紅葉が見られるかと野毛山を訪れた。気温は高くシャツ一枚になるほどであった。空気が乾燥していて快適に歩くことができた。低いとはいえ一応山であるので、階段が多く気が抜けない坂道が続いていた。
期待していた紅葉はまだで、そこかしこに色付いた葉が見られる程度だった。錦絵の世界を期待するのは一か月は先になることだろう。
市立中央図書館の前の公園入口で案内板をみて、直ぐに年を経た木立の立ち並ぶ中を上りにかかる。直ぐに坂の右手に小さな広場がある。中村汀女の碑が建っており、その脇には横浜を詠った句が数本かかっている。
蕗のたう おもひおもひの 夕汽笛
横浜に 住みなれ夜ごと 夜霧かな
この歌などは当時の横浜を思い浮かばせる雰囲気を醸している。
この広場の桜の木が紅葉を始めており、秋を感じさせた。広場から海側を見ると巨大なランドマークタワーが眺望できる。後で紹介する掃部山からはさらに大きく見え、横浜のシンボルタワーであることを改めて認識させる。今や往時の100年後の新しい顔となっている。
道に戻り、緩やかに続く坂道の頂上には道を阻むように巨大な3本の足を持った巨木が目に入る。近づいてみると、タブの木という名板がある。普段ケヤキやクスノキなどを多く見ているので、珍しく感じた。確かに樹皮がごつごつして乾いた樵の掌(見たことはないが)のような手触りだった。
この辺まで入ると森林という感じが強くなり、谷越えに赤く色づいた木も散見できた。これが全部紅葉したらさぞ壮観であろう。
さらに奥に進むと佐久間象山の碑がある。象山は横浜に縁が深く「横浜開港の父」と呼ばれている。彼の功績により1859(安静6)年日米修好条約により横浜港は開港し、外国との交易の窓口となったと碑には記されている。碑の脇にある桜の木も色付いていた。桜の紅葉が一番早いようだ。別のページで紹介した落葉広葉樹の中には入っておらず、紅葉というより枯葉に近い存在で、どちらかと言えば「枯葉も山の賑わい」の部類に入るだろう。
さらに下りに入って進むと、下の方で野毛山動物園で戯れる園児の賑やかな声が聞こえる。この辺りの楓が少し赤みを帯びているのを見ることができた。道を動物園の反対側の小道を行くことにした。人ひとりがやっと通れるほどに狭く、おまけに急な階段が続いた。行き止まりではないかといぶかりながら、先ずは先に進むことにした。どうにか広い道に出ることができた。そこは伊勢町に近い戸部町であった。この道を少し上ると坂の頂上、戸部1丁目の交差点に出た。正面が紅葉坂である。ここからの景色はMM21の全貌を捉える。青少年センター(図書館や音楽堂もある)を過ぎ左に曲がる。その先には掃部山がある(反対側は伊勢山皇大神宮や成田山がある)。
ここは紅葉坂と呼ばれるくらいだから、ひょっとしたら紅葉が見られるかと少し期待したが、野毛山がまだなら当然ここもまだその時期には遠かった。
掃部山の由来について標示板では『江戸時代までこのあたりは「不動山」と呼ばれる海に面した高台で、明治初期から、日本初の鉄道開通に携わった外国人技術者の官舎が建てられ鉄道事業の拠点で、当初は鉄道山とも呼ばれた。(中略)明治17(1884)年旧彦根藩士らが一帯を買い取り、井伊家に寄贈したことから、井伊掃部頭直弼にちなみ「掃部山」となった』とある。
公園の中央には掃部頭の銅像が今も海に向かって立っている。その近くには「まちなかに 緑をたもつ 掃部山 ましてや虫を 聴く夜たのしき(幸吉)」の句碑が建っている。作者の飯岡幸吉はアララギ派の歌人で、地元Y高出身の元銀行員、定年後歌人として活動した。
この歌に詠まれているように、都会の真ん中とは思えない緑濃い森の中、鳥の囀る声が賑やかで、自然を強く感じた。直ぐ近くには池もある。築山仕様の庭園で、井伊家所有の時代に造成された日本庭園の名残だということだ。
この公園の出口近くに往時の写真が掲示されている。これを見ると私の幼児期には、まだこんな風俗があったと、おぼろげに思い出した。
京急日ノ出町駅から雪見橋バス停まで約1時間半。歩いた行程は1万歩を優に超えた。
11月下旬にはもう一度訪れてみたい場所だ。(2016.10.26)