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山手散歩2016(4)山の上の洋館群


 山手散歩4回目は前回に引き続き山手の洋館群を紹介する。
 山手十番館と路地一つ隔てて山手聖公会があり、山手234番館と「えの木てい」がセットである。この建物はどういうものかと言うと「昭和2(1927)年頃外国人向けの共同住宅(アパートメントハウス)として、現在の敷地に民間業者によって建設された。関東大震災により横浜を離れた外国人に戻ってもらうための復興事業の一つとして建てられ、設計者は、隣接する山手89-6番館(現えの木てい)と同じ朝香吉蔵。セットといったのは同じ建築士が建てたからで、朝香吉蔵と言う人は「 明治22年に山形で生まれ、横浜の浅野造船所や横浜船渠株式会社建築部などを経て、大正12年に事務所を開設した。その作品は現在のところ、この234番館と隣接する「えの木てい」以外に、所在がはっきりする設計作品は知られていない」。
 この西洋館についての案内では「建設当時の施設は、4つの同一形式の住戸が、中央部分の玄関ポーチを挟んで対称的に向かい合い、上下に重なる構成をもっていた。3LDKの間取りは、合理的かつコンパクトにまとめられている。また、洋風住宅の標準的な要素である上げ下げ窓や鎧戸、煙突なども簡素な仕様で採用され、震災後の洋風住宅の意匠の典型といえる。
 建築後、第2次世界大戦後の米軍による接収などを経て、昭和50年代頃までアパートメントとして使用されていたが、平成元(1989)年に横浜市が歴史的景観の保全を目的に取得した。平成9(1997)年から保全改修工事を行なうとともに、平成11(1999)年から一般公開する」と表示されている。
 次に訪れたのはエリスマン(Ehrismann)邸。元町公園の坂を上り切ったところにあるのがエリスマン邸(127番館)である。エリスマン邸は、生糸貿易商社シーベルヘグナー商会の横浜支配人として活躍した、スイス生まれのフリッツ・エリスマン氏の邸宅として、大正14(1925)年から15(1926)年にかけて山手町127番地に建てられた。設計は「現代建築の父」といわれるチェコ出身の建築家アントニン・レーモンド。当時は木造2階建て、和館つきで建築面積は約81坪。屋根はスレート葺、階上は下見板張り、階下は竪羽目張りの白亜の洋館だった。煙突、ベランダ、屋根窓、上げ下げ窓、鎧戸といった異人館的要素をもちながら、軒の水平線の強調など、設計者レーモンドの師匠である世界的建築家F.L.ライトの影響が見られる建物である。昭和57(1982)年マンション建築のため解体されたが、平成2(1990)年元町公園内の現在地(旧山手居留地81番地)に再現された。1階には暖炉のある応接室、居間兼食堂、庭を眺めるサンルームなどがあり、簡潔なデザインを再現してい。椅子やテーブルなどの家具は、レーモンドが設計した。かつて3つの寝室があった2階は、写真や図面で山手の洋館に関する資料を展示してる。
 このように再現された建物が多くこの街の景観を作り上げている。新しい観光地づくりのモデルとでも言えよう。
 エリスマン邸の反対側にはベイリックホールがある。この建物は紹介案内文では「べーリック・ホール(Berrick Hall:旧ベリック邸)は、イギリス人貿易商B.R.ベリック氏の邸宅として、昭和5(1930)年に設計された。第二次世界大戦前まで住宅として使用された後、昭和31(1956)年に遺族より宗教法人カトリック・マリア会に寄付され、平成12(2000)年まで、セント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用されていた。
 現存する戦前の山手外国人住宅の中では最大規模の建物で、設計したのはアメリカ人建築家J.H.モーガン。モーガンは山手111番館や山手聖公会、根岸競馬場など数多くの建築を残している。600坪の敷地に立つべーリック・ホールは、スパニッシュスタイルを基調とし、外観は玄関の3連アーチや、イスラム様式の流れをくむクワットレフォイルと呼ばれる小窓、瓦屋根をもつ煙突など多彩な装飾をつけている。内部も、広いリビングやパームルーム、和風の食堂、白と黒のタイル張りの床、玄関や階段のアイアンワーク、また子息の部屋の壁はフレスコ技法を用いて復元されているなど、建築学的にも価値のある建物。
 平成13(2001)年横浜市は、建物が所在する用地を元町公園の拡張区域として買収するとともに、建物については宗教法人カトリック・マリア会から寄付を受け、復元・改修等の工事を経て、平成14(2002)年から建物と庭園を公開している」。「山手散歩(5)に続く」

(ムービーでご覧ください)」


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