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横浜昔物語1(開港までの道のり)

 横浜の東海道を紹介してから3年が経過しようとしている。
 今回は宿場を巡りながら、それぞれの旧跡・道標の案内で知ることもできた横浜の昔について、少し詳しく調べてみた。参考にさせて頂いた文献は主に「わかるヨコハマ:神奈川新聞社2009年刊)」
 道標に記された武蔵国とか相模国がかつての神奈川県の元になっいる。
 記述に残っている八世紀初めに制定された大宝律令によって各地に国司が派遣された。この律令制度は701年に制定された国家経営の基礎をなすもので、中国唐の時代の制度に倣ったもので、律令の律は刑法、令は行政法という意味であり、日本では7世紀後半から8世紀にかけて飛鳥浄見原律令、大宝律令、養老律令などが制定整備された。
 大宝律令では今の戸籍制度の原型を見ることができる。「人々は「戸」という単位にまとめられ、50戸で一里(郷)というとされていた。この戸は国が口分田という田を支給し、税を取るための単位として作られたものであった。人々は農作業を中心に、春や秋の祭り、各種の税の納入や労役などに働いて一年の生活を送っていた。人々に課せられた負担は軽いものではなかった。租庸調などの税の他に21歳~60歳の男子の3分の1は兵士に入ることが課せる」というのがこの制度の骨格をなしており、この制度は多少形は変えたが江戸末期まで続くことになる。
 当時の地図と現在の横浜市のそれと比べて、おおよその見当を付けて当てはめて見ると、多摩川を境に川崎と横浜全域が武蔵国になり、鎌倉から西に向かって小田原までが相模国となる。
 更に横浜市に含まれる郡部としては、橘樹 (たちばな)郡、都筑(つずき)郡、久良(くらき)郡の三つの地域に分かれる。現在でもその名残の地名が此処彼処に見ることができる。
 横浜という地名が文書に残る最古のものは、南区の宝生寺にある。この文書は、頼朝の御家人平子氏の家来が寺に寄進した目録に「久良郡横浜村」という記述が見られる。推定で1200年代のものと思われる。横浜村は東海道筋に当たる神奈川、程ヶ谷、戸塚という宿場のある村に比べ、入海に面したひなびた村だったにに違いない。横浜市史によれば、当時(寛政年間)の横浜市の状況は、村数207、戸数1587となっており、人口の記載はない。1戸当たり4人と仮定すると人口は65万人程度と推察される。
 それが嘉永6(1853)年6月3日突如浦賀沖に現れた4隻の黒船によって、脚光を浴びることになる。この続きは次稿に譲ることにする。


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