安政元(1854)年再びペリーは来航し、開国を強く迫った。幕府を動かすため、ペリーは艦隊を神奈川沖から羽田沖まで移動させ、江戸から黒船が見えるほど接近し威嚇した。
驚いた幕府は急遽神奈川宿の対岸横浜村の入海を停泊の地とするように提案した。ペリーもこれに同意し、神奈川沖に艦隊を戻した。こうして横浜村は応接地として決められ、アメリカ人がこの地を調査するために上陸した。その結果駒形という地(現県庁旧館付近)を応接地と決めた。これが外国人が残した横浜への第一歩ということになる。安政元年二月十日第一回目の会談が行われた。都合四回の会談を重ねた結果、三月三十日調印がなされ、これが歴史に残る日米和親条約の締結である。
その後開港場となる横浜村がどのような経過をたどって日本の表玄関へと変貌するか探ってみることにしよう。
横浜開港の裏には幕府の思惑があった。開港場を大阪にしようという話もあったが、当時大阪は日本の商業の中心地であり、全国の利権の7~8割を大阪商人が支配している状態であった。その上大阪に開港場が設けられれば、全国の利権は全て独占され、江戸は経済的に窮地に陥るのは目に見えていたからだ。横浜を開港場とすれば、横浜と江戸をむすんで全国の貨物を外国に輸出するため、江戸を物流の拠点にすることができると考えたわけである。
横浜開港場説を強く主張したのが、全権委員のひとり岩瀬忠震(ただなお)という人物で、開港の立役者のひとりである。交渉の一方の立役者は老中井伊直弼(なおすけ)であり、朝廷の反対を押し切り強引に調印にこぎつけた。時に安政五(1858)年六月十九日であった。このことが桜田門の変につながる遠因となる。西区紅葉坂に掃部山公園があるが、これは井伊直弼を記念し、銅像もたっており、今も港を見下ろしている。
「横浜の東海道」の神奈川宿でも紹介したが、神奈川宿周辺には各国の領事館跡が残されている。これは開港し外国人を受け入れるのには、領事館をまず立ち上げることが必要だったからだ。ハリスはまず高島台の本覚寺を領事館に当て、ついでオランダ( 浄土真宗長延寺)、イギリス(浄滝寺)、フランス(慶運寺)などが改装されて領事館となった。名刹の住職も寺から追い出され、寺は白や水色のペンキで塗り替えられ、畳は外され寄木の床に変わったという話が伝えられている。
宿場に領事館があるとなると、入江と台地に挟まれた宿の地形は狭すぎた上に宿場町は交通も頻繁で雑多な人間も紛れ込み、治安を守るのが難しいことが分かった。そこで第2段階として横浜村への移転が考えられ、開港場横浜の町づくりが始まった。
横浜物語:瓜生卓造著(抜粋)によれば「この町づくりには九万六千両の巨費が投じられ、突貫工事で行われた。町の中央、駒形に運上所を建て、ここを中心にして東側元町方面を外人居留地、西側を日本人街とし、海沿いから海岸通、北仲通、本町通、南仲通、弁天通の五つの道で区分けした。入海の埋め立ても進み、埋立地には横浜新田、大田屋新田などという名で呼ばれた。吉田新田から野毛浦へは野毛橋、都橋、太田屋新田へは吉田橋が架けられた。
建物と並行して港の建設も進んだ。運上所の前には東西二か所 の船着き場がつくられた。東波止場は長さ110メートル、幅18メートル、高さ1.5メートルの土手という記録がある。横浜はすべて船によってもたらされたものだ。この東波止場が文明の窓となったのである。シルクセンターの前には「和親条約締結」の記念碑あり、そこには運上所跡と記されている」とここまでが、横浜開港誕生の物語である。