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2017.1.1 人生の節目(1)

 人はその人生の中で多くの節目を迎える。丁度孟宗竹のような大きな節目が、その成長過程で見られる。長生きすればするほど節目の数も多くなる。
 昔からこうした節目を通過儀礼と呼んで大切にしてきた。生まれ、成人し、結婚し、還暦を以て隠居する。そうした一つの流れのような大きな節目が長く続いた。
 戦後高度成長期が終わった頃から、高齢化社会に入り、60歳は単なる通過点になってしまった。今は人生80年というのが平均的健康年齢のようで、随分長生きするようになった。
 こうした社会の高齢化現象は、かつては当たり前の人生の通過儀礼を大きく変えてしまい、儀礼的な風習は廃れる傾向にある。一方で七五三、成人式、結婚式などは華やかさを増しているようで、民族的慣習より経済的理由により通過儀礼が行われているように思える。
 最もこうしたしきたりが強く残っているのは、宮中行事で、これは今も昔も変わらないようだ。
 前置きが長くなったが、伝統的な人生の通過儀礼について調べてみた。
 昔からの人生儀礼には、誕生・成年・婚姻・葬送の4つが大きな節目とされている。これらを総称して「冠婚葬祭」という。
 このうち「冠」は元服式、今の成人式に当たる。「婚」は婚礼、「葬」は葬式のことである。最後の「祭」は先祖の供養を指すもので、いまではその多くが簡素化されたり、省略されている。
 家長を中心とする家族制度が崩れ、子どもは都会に出て、世帯を持ち核家族化と、年寄り(親・祖父母)の住む俗に言う「故郷(田舎)」は過疎化が進んでいる。お墓も都会に移し、先祖の墓は次第に無縁化していくことになる。
 話を戻し、冠婚葬祭の概要を示すことにする。次回には通過儀礼の始まり「冠」から考察しすることにする(4日2回目、7日3回目でまとめたい)。

2017.1.4 人生の節目(2)

 人生の節目(ふしめ)を冠婚葬祭という切り口で解き明かしていく。
 冠という漢字は「かんむり」と訓読みする。「かんむり」とは人間が生まれて一人前になった印にかぶる儀式に深く関わっている。字源を辿ると「かんむりをつける。男子が二十歳で成人式をあげ、かんむりをつける。元服」とある。成人になるということは、その後は自分の道は自分で切り開いていくのだということを意味する。少し時間を巻き戻すと、それまでは親などが大切に育てきたという証でもある。
 生まれ、健康に育つということは当たり前のようだが、私のように戦中 育ちにとっては、生き残ることそのこと自体が難しい時代であった。私は伝統的な通過儀礼というものを経験した記憶がない。その時代世の中全体に儀礼をおこなう余裕などなかったのである。
 ここで成人するまでの過程で行われる伝統的通過儀礼とはどんなものなのか、節目としての「成長の儀礼」としてまとめてみた。
 出産後の生児に対する儀礼は、産神(ウブガミ:出産の安全を守護する神様)に対するもので、産神祭り、産着祝い、名付けといった順で進められる。男児は三十二日目、女児は三十三日目に初宮参りをする。百日目には食い初めの儀式が行われる。これは生児が歯が生えるほどに成長したことを祝う儀式だ。
 そして、暦の上では、男児は5月5日(こどもの日:鯉のぼりや武者人形を贈って祝う)、女児は3月3日(雛祭り)に節句祝いが行われる。
 次の大きな節目は七五三祝いで、毎年11月15日になると三歳、五歳、七歳に達した児が氏神様などに参る風習で、これらは今でも広く行われている。
 日本では七歳までを神の子といって特別の扱いをし、七歳という節目に地域の仲間入りをする「子供組加入儀礼」が行われる。日本では昔から七歳ぐらいから十四、五歳くらいの男女によって子供組が構成されていた。子供組 の行事は小正月の訪問、道祖神の祭り、鳥追い、左義長などの神事に際し、子供の年齢に応じて組織ができ、それぞれが役割を分担する。
 一例を上げると大磯の左義長は「 松の内(1月7日)が過ぎると子どもたちは正月のお飾りを集めて歩き回り、セエノカミサンのお仮屋を作りそこに籠り、14日に集めたお飾りなどを燃やす道祖神の祭り」のように、子どもに神と人間の接し方を理解させる学習の機会といえよう。こうして子どもは徐々に社会性を身に付け成長していく(次回は成人式について考察する)。


2017.1.7 人生の節目(3)
 子どもから大人に変る節目、それが明後日(9日第二週の月曜日)の成人の日にやってくる。
 今回は成人を祝う通過儀礼の歴史的背景などについて見ることにしよう。
 先ず成人になることの定義として、国際法「児童の権利に関する条約」において、18歳未満の者を児童としている。
 日本においては、民法の定めにより「年齢二十歳をもって、成年とする」という規定がある。昨年2016年から18歳になれば選挙権が得られるように一部改正された。
 子どもから大人になる境界線は少し曖昧になってきている。皇室典範では18歳で成年になると定められている。これは慣例によるもので、立太子の礼という儀式が執り行われる。
 歴史を遡って成人の儀式について調べて見ると「奈良時代」以降「元服」という通過儀礼が行われるようになった。元服の「元」は首(=頭)のことで「服」は着用という意味で、合わせて「頭に冠を着ける」という儀式を表す。公家社会では烏帽子(えぼし)を着け幼名を廃して(例えば「牛若丸」を「九郎判官義経」と改名)元服名を新たに付けることが習わしとなった。江戸時代公家以外は烏帽子を着けず、前髪を剃って月代(さかやき)とすることで済ませるようになった。
 女性もまた元服と称して、娘から大人の女性になると、着物が地味になり、日本髪を丸髷などの形に変え、厚化粧し、お歯黒を付け、引眉するなどして成人の証とした。成人の儀には地方色が多く見られる。男子の場合米俵一俵(約60キロ)を持ち上げることができれば一人前と認める儀式などがあった。
 このように成人式の形態は肉体的試練に耐え抜くという行事を通過しないと、一人前の男(成人)とは認められなかった。
 成人の通過儀礼の意味するものは「新しい任務を担うべき階梯に移る(一段ステップが上がる)ための誕生」の証でもあった。
 現代では成人する者に対し何の試練も与えない。従って自覚のないままに大人の社会に入ることになる。法の上では権利や義務が発生するが、そういう事実を実感しないままに大人になることは、本人にとっても社会にとっても形式的節目となり、好ましい傾向とは言えないと私は考える。
 紙数の関係で「冠」で終わってしまったが、残りの結婚、葬儀、祭事についてはまたの機会に言及したい。

2017.1.10  家と家族
 家については今までも「生活六考(住2015.5.28)」でも触れたが、家族生活の視点からさらに見直してみた。
 家というのは家屋という建物のことなのだが、もとは家庭、家柄、家族の意味が強かった。建物としての家は、屋(ヤ)といった。これは形声文字でウ冠の形「宀の字は交差して覆う屋根をかたどり、家屋を意味する」ところからも、住居としての場ということが読み取れる。
 独身者がアパートに住むことと、世帯持ちが家を構えるということは、たとえどんな形態の家屋であっても、その意味合いは違ってくる。最大の相違点は家族と共に住むということである。現在では夫婦と子どもという構成で、家業の関係や家柄の高いところでは、両親・祖父母と共同生活することもあるが、大体別に家を分けて世帯を持つのが一般的だ。
 多くの家族が集まる機会があるとすれば、正月やお盆休みぐらいだろう。それも多くは旦那の故郷への帰省ということになる。これで都会に出た子どもの親への義理立ては(?)済んだことになる。嫁さんは気苦労が多く、自分の実家の方に帰りたいと思っているかもしれない。そこに後継ぎがいる場合は別だが。
 こうした現状を踏まえて家を見直すと、色々なことが見えてくる。先ず家の構造が違う。これはイメージだが、田舎の家は木造の和風住宅で、茶の間、居間、客間などがあり、これらは襖と廊下でつながっている。大きい家だと仏間が別にあったりする。常に人が泊りがけで来ることを想定している。
 一方都会生活の場合、一戸建てもあるが、マンションも多い。どこの家にも客間などありはしない。他人が泊まることなどはまず想定していない。その分、機能性や生活の快適性に重きが置かれる。二世帯住宅が流行った時があるが、これも都会育ちの両親が子どものために建てるケースが多いようだ。
 現在ではどうにか家族としての家があるが、従来の男系系譜と言われる跡取りが家を守るという形は少しづつ綻びが見え始めている。

2017.1.14 町内活動(地域生活1)
 どの町に住んでも住人としての役割がある。身近な話としては、ゴミ出しのルール(分別)を守る。防犯・防災活動に定期的に参加することなどだ。
 他にもボランティアで地元の公園などを清掃する住人も多い。そいう意味で生活共同体に加わることになる。
 今でも夏祭りなどは町内単位で行われる。神輿や山車などは各町内に置き場があり、祭りになると多くの住民が参加する。盆踊りなどと合わせて地元の風物詩を描いてくれる。
 その地に住むということは、そこの先住の人たちに溶け込む姿勢が大切である。そうすることは割合難しい。私の地域との関わりは極めて希薄である。それは年齢による肉体的衰えもあるが、以前にも言ったように酒が全く駄目だということから、何かにつけ酒の付き合いの多い地域の集まりへの参加を嫌っていることも事実だ。
 それで済むとは思っていないので、では何か地域の人に溶け込む手立てはないかと考えた。せいぜいご近所の人に道で逢ったら、愛想よく笑顔で「こんにちは」ぐらいの挨拶はできそうだ。ゴミを拾って歩くというところまでは行かないが、町を汚さないという心得ぐらいは持てそうだ。
 そんな小さな行為の積み重ねが地域に溶け込む糸口になるかも知れない。
 住環境も地域との結びつきにとって大きな要因となる。私はこの地に住んで35年ほど経つが、マンションという一つの囲いの中で暮らす者は、中々地域に溶け込めずにいる。ここが建つ前、マンション建設に反対もあったということから地元にもよそ者という感じを抱いている人も多いだろう。
 その傾向は、他にもある。この地域一体が駅近という利便性もあって、独身者向けアパートが毎日のように建てられている。
 ここに移り住む新住人は寝に帰る場所でしかないから、地域との関わりは面倒臭いと思うだろう。終の棲家とする人との意識は全く違うだろう。知り合いの他の場所の町内会長さんが言うに、冒頭に記したように「ゴミ出しのルールを守らない。町内会費が集め難い」などという話もある。地域を生活共同体と受け止めることは難しいのが実情だ。
 次回は地域共同体(村など)がどう生まれたかなどについて考察したい。

2017.1.17 地域の人との関わり(地域生活2)
 地域における人間関係について、学者たちは今までにいくつかの類型に分けて説明してきた。
 その概要は「親族関係、近隣関係、朋友関係という分け方。親族集団、地域集団といった類型。それを総称する血縁、地縁、社縁」といった分け方が見られる。
 地域のおける人間関係とはこのように、複雑に絡み合った関係にある。
 今回のテーマは「地域社会」と人との関わりであるので、近隣関係というところに的が絞られる。
 地域社会の原点である「村」や「町」はどのような経過を辿って形づくられたか文献で探ってみた。
 「ムラ(村)は日本では古くから用いられてきた言葉である。その原義はムレ(群れ)・ムラガリ(群がり)と同じである。原始時代から人は群れることで生活の基盤を築いてきたが、その住居跡などの遺跡から、それが読み取れる。このことは単に家が密集しているという構造的集合体を表すのではなく、そこには自然的、経済的、社会的、政治的、文化的といった種々の条件が重なって存立していたことが分かる。
 自然的現象とは、強風や強い直射日光を避け、水が得られやすい場所のことである。経済的条件としては、共同で狩猟採集が営まれるところ、あるいは穀物栽培がし易く、生活資材の得やすい場所のことである。社会的・政治的・文化的条件とは、土地の利用・労働の組織化・社会生活の統制や冠婚葬祭などの機能の発揮しやすい場所であること。等々を上げることができる。人々は家族単位で生活を営むために自然発生的に群がり、住民自らが意識し活動して自律的単位として形成されたのが村の起こりである。(日本を知る事典から要約)」
 こうした村の集まりが町へ更には市へと発展し、県・国へとその広がりを見せることになる。
 次回はこの話を引き継いで、それを歴史的視点で捉えてみたい。

2017.1.20 わが町₍地域生活(3)
 いよいよ本テーマの締めくくりに入る。
 今回は現在自分が住んでいる町であるが、それは(1)でも記した通りであるので、この場所の歴史的背景などについて述べてみたい。
 その前に地域への意識について、どう考えているかというと、私は日本人で日本が好きである。戦後の一時期生活が窮乏しているときは「アメリカ人だったらいいな」と思ったこともあった。だが今の日本は世界で一番住みよい国かもしれない(特に私のように高齢者にとっては)。
 そして神奈川県も、役人としての仕事を40年近く働いた場所だから気に入っている。さらに横浜市にいたっては、浜っ子として生まれ育ったことを誇りに思っている。
 ところが市内の区に住むということになると、少し地域意識が異なる。これは血縁とか地縁、社縁といった関係の深さの違いに原因があるようだ。生まれ育った保土ヶ谷区はそうした縁が深い場所だから、いわば故郷のようなものだ。一方現住地の神奈川区は移り住んだ場所で、上に記した類型の「縁」とは無縁な地域だ。
 とはいっても、いま住んでる場所の成り立ちぐらいは知っておこうと、近くの図書館で神奈川区の成り立ちについて調べてみた。
 それによると、神奈川区は「神奈川の東海道」でも紹介したように、横浜市に入って最初の宿場があった場所である。それ故歴史は古く神奈川区誌によれば、横浜市に区制が施行されたのは昭和2年10月1日でそれほど昔の話ではない。最初に生まれた区は、神奈川、鶴見、中、保土ヶ谷、磯子の5区だった。神奈川区はどういう状況だったか見ると、面積は5区の中で一番広かったが、海辺を除き大半が田畑だという記述がある。農業中心の生活域であるから、村的要素も強かったと類推できる。
 この地が大きく変わったのは、先の大戦により工業地帯はほとんど消えてしまった。その他も空襲で多くが消失した。戦後復興したが、なお多くの米軍接収地が残ってしまった。それが返還されたのはバブル期を過ぎてからだと思われる。未だにノースピアは接収されたままだ。
 その結果立ち直りが大きく遅れた。戦争により地域の風習やしきたりは消えた。交通至便の私の住む地域などは、戦後開かれた新興住宅地といってもいいだろう。こうしてそこの住民は、お互いに干渉し合わないという暗黙の了解があって、生活しているためか、地域に対する愛着のようなものは希薄だ。こうした場所で古い文化やしきたりの継承が見られないのは、当然のことなのかもしれない。

2017.1.24 日本の家具
 家具の定義付けは欧州と英米ではその認識が異なる。独仏では動くものという意味が当てられ、英米では備え付けるという意味を持っ。
 これに対して日本では、今でもお寺の座敷に見られるように家具らしいものは見当たらない。
 我が家などは部屋は家具に占拠されている。これは現状の日本における家具配置の実情でもある。
 古い日本の民家を見ると畳の部屋にはあまり家具類は置いてない。見られるのは箪笥や鏡台ぐらいだろう。どだい畳の上に重い家具を長く置いておくことは好ましくない。古来、部屋に調度品を置くことは「調度多きはいやしきもの」という日本人の美意識があったようだ。
 一説によると、欧米との居間の造りの違いは文化の違いに関連しているそうだ。欧米では床が板敷きであり、椅子・ベッド・テーブルなどの調度品を置き、靴を履いたままで生活するという文化がある。
 これに対し日本は畳の文化で、これは「たたむ」が語源で、畳は古くはむしろ・ござ・こもなどの総称で、座ったり寝たりする場所に一時的に敷かれたもので、普段は畳んでいた。 現在のように敷きつめるように厚くなったのは、書院造が生まれた中世(15世紀) 以降である。この時を境に家具の一部であった畳は家と融合することになる。古民家を見れば分かるように、部屋に入る時は履物は脱ぐような構造になっている。畳は座る場所であり、座敷と言う言葉はそこから発しているようだ。その座敷にある収納家具も棚・押入れなどのように家と融合していったという歴史的背景がある。
 こうした伝統的文化を受け継ぐ日本家屋が大きな変遷を迎えるのは明治以降の西洋文化の流入で、それと融合したのが洋間の導入で、離れとして別棟に西洋館を建て、そこには椅子・テーブル・ベッド・ソファーなどの西洋家具が置かれた。今でも戦災を免れた家にそうした建築物を見ることができる。家具を置くには板敷きのフローリングの方が優れている。
 現代は電化製品が家具として新しく位置を占めている。冷蔵庫・洗濯機・テレビ・オーディオ等々数え切れない。これらの家具は生活様式すら変えてしまう。
 これからの家はこうした家具をいかに上手く収納し、快適な生活空間を生み出すことに重きが置かれることになるだろう。

2017.1.27 箸の禁じ手
 日本人の食文化を語る上で、箸の存在は欠かせない。西洋では晩餐会などの時などを見ると、複数のフォーク・ナイフ・スプーンが食卓に並べられる。そこにはややこしいマナーもある。日本では食事は一膳の箸で済ますことができる。非常に効率がよく便利だ。西洋人が箸を見ると奇妙な道具だと感じるだろう。しかし使ってみるとなかなか重宝なモノだということが分かるだろう。日本人の指先の器用さは生まれて直ぐから箸の使い方を身につけていることに起因されるともいわれている。したがって 西洋人が直ぐに箸を使いこなすのは、さぞかし難しい技だろう。
 西洋に食事がマナーがあるのと同様に日本の箸の使い方にもマナーがある。箸の使い方には以下に示す10以上の禁じ手がある。その種類とどういう行為なのか説明する。これらが禁忌とされるのは、以下の理由による。
・一緒に食事をしている人を不快にさせるもの
・お箸や器を傷つけるもの
・仏事に関わるもの、縁起が良くないとされているもの

箸の禁じ手15種
移り箸」一度取ろうとしたおかずから別のおかずへと箸を動かして食べること
惑い(迷い)箸」どれを食べようか料理の上で箸をさまよわせること。
重ね箸 」同じ料理ばかり手につけること。
揃え箸」口中や食器の上などで箸先をそろえること。
指差し箸」箸先で、または箸を持ったまま、人を指差すこと。
探り箸」箸で料理の中身を探ること。
刺し箸」料理に箸を突き刺すこと。
涙箸 」箸先から汁をたらすこと。
舐(ねぶ)り箸」食事中に箸の先をなめること。
押し込み箸」箸で口に料理を無理矢理押し込んで食べること。
渡し箸」食後箸を椀の上に置くこと。
たたき箸」箸で食器をたたくこと。
せせり箸」箸を爪楊枝代わりに使うこと。
拾い箸」箸から箸へと食べ物を受け渡すこと(弔事)。
つき立て箸」箸をご飯の上に立てること(弔事)。

2017.1.30 収納(衣類)
 このコラムのテーマについては、今年は日本の文化や伝統を見直すこととしている。前々回「家具(収納の一部だが)」を取り上げたが、今回は「収納(衣類)」について考察する。
 私の身の回りの収納について観察すると、まず衣類だが、これらは箪笥やハンガーなどで壁にかけているものが多い。季節に合わぬものは、衣装ケースに入れて押し入れや、箪笥の上に積んで置き、出番を待つ。他には洗濯籠(かご)なども入れ物になる。日本の伝統的収納具をこれに当てはめると、次のようなものが見当たる。
 昔の呼び名で上げると、「櫃(ひつ)・長持(ながもち)・葛籠(つづら)・行李(こうり)」などがある。
 櫃は形は大小あるが大形の箱で蓋のあるものをいう。古くからあるものに「唐櫃(からびつ)」がある。その名が示すように大陸から渡った収納箱で、箱の下に四つまたは六つの脚がついている。
 いまでも正倉院に数多く遺品として見ることができる。脚のつかないものがあり、これを「倭櫃(やまとびつ)」といい、日本独自のものであることが分かる。
 これがその後、室町時代に倭櫃の長大なものを特に 「長持」と呼ぶようになった。よく映画の大名行列に出てくる駕籠のように長持の上に担い金具を取り付けそこに棹を通して担いでいるシーンを見かけるが、これは「長棹」とも呼ばれた。明治の頃までは嫁入り道具の一つであったが、大正に入り廃れていった。
 葛籠は衣類などを入れる長方形の収納具の一種。元はツツラフジの蔓(つる)を編んで作った籠で葛羅と書いてツヅラと読ませた。後に藤蔓・竹・檜の薄板を編んで作るようになった。その箱の周囲に紙を貼り、渋・漆などを塗ったものが、元禄時代に作られるようになった。これなども時代劇映画の一シーンにはよく見かける小道具だ。これも嫁入り道具の一つだったが、大正時代には姿を消していった。
 行李は私の子供の頃には家にもあり、行商人が担いで商売する姿も見かけた。「柳行李」とか「竹行李」というのがあり、前者は柳の枝(川柳の小枝)を並べて麻糸で編み綴り、角に皮・布を被せて補強する。竹も素材が安価で加工しやすく静岡県の御殿場地方が主産地だった。行李は一人一個の着替えや手回り品の収納具。日本人の簡素な暮らしのをよく表している収納具と言えよう。
 今は民芸品的価値のある道具として見られているが、結構実用に向くので新しいスタイルで再登場するかもしれない。(参考文献:日本を知る事典)