2017.11.2 電子エンタメで楽しむ
電子エンタメ(エンタメ(エンターテイメント))とはパソコンやスマホで楽しめる音楽や映画特にTVシリーズの作品、そして青空文庫や、無料の雑誌読み放題などのアイテムである。
数ある中から私が利用しているはAmazon-primeとKindleとamazon musicでこのほか音楽ではspotfyを聞いている。書籍では楽天KoboとBookLive、雑誌専門のdマガジンを読んでいる。いづれもiPadにアプリを入れての活用となる。
このきっかけは神経痛が収まるまで寝床で見たり聴いたりする時間繋ぎに使ったものだが、連続ドラマなどはつい興味がそそられ眠気が湧いても見過ごしてしまい、つい寝損なうこともしばしばだ。
興味の深いPC雑誌を無料で詠めるのもうれしい(dマガジンは月額400円)。1誌700円近くはする月刊誌を数誌読めるのはうれしい。切り抜きも必要なくなり、読み終わった雑誌の山ができることもない一石二鳥ものだ。この辺は電子化されたブックの大きなメリットの一つだ。
こうしたペーパーメディアの電子化がどんどん進むと既存の出版社は相当打撃を蒙ることだろう。無論電子化される本も、もともとは出版社のものだから、どのようにして採算を取っているのかは不思議だ。新聞などはとっくに電子版が出ているが価格は紙のものと殆ど変わらず読む気にならない。新聞数紙を閲覧できて安価なサプライヤーが生まれるのは時間の問題だろう。
私は毎日のニュースには興味があるので、よく風呂に防水を施したiPodを持ちこんで、グノシー、ニュースパス、スマート新聞、SmartNews、NewsPicks、ITメディアなどを閲覧する。便利なのだが、いかんせんスマート新聞以外は拡大画面に広げることができないのが残念だ。老眼にはスマホの小さい画面では細かい字はよく見えない。
いずれにせよ今までは紙媒体が幅を利かせていた世界がIT革命により大きく変貌してきているのが現実である。
2017.11.6 読書三昧
前回に電子メディアについての大まかな話を紹介したが、実際どう活用しているかということについて取り上げてみた。
実は今までの本の活用方法に対いしては、かなりの偏向があった。どういう事かと言うと、書く(描く)ための資料を集めていたという実務的面が主体であった。基本となる辞典類や画集、特集している人生哲学を構成する道元に関する文献がそのすべてと言ってもいいくらいの偏りがあった。
それはサイト更新という追っかけ仕事に精一杯だったからで、本来書くための栄養素とでも言える幅広いジャンルの知識の吸収には手が届かなかった。
ところが病を得て外出できなくなり、生の取材と言うHPの生命線と言うべき『Watch(のぞむ)』を欠いてしまった。これにより読者が減り、HPとしては大打撃を受けている。
それに変わる手段はないが、内容面でより濃い味付けを試みることにし、無料で入手できる本や雑誌を走り読みし、考えるヒントをさがしている。結局行き着くところは自分が書くものと関連付けされてしまうのだが、こうしたことは歩んでいる道は一つに収斂するということで、避けられないことなのだろう。
どのような本を活用しているかという例を上げると雑誌では『週刊アスキー』『週刊エコノミスト』『日経PC21』、『家電批評』などがある。HPを運営する上でPCの最新情報は欠かせない基礎情報であるので、こうした電子雑誌を月額400円で自由に閲覧できることは非常に役立つ。
AmazonPrimeのKindleの無料読み放題でダウンロードしたものには、『北斎傑作浮世絵集』と『富嶽百景』及び『東洲斎写楽作品集』と『東洲斎写楽画集』が描画の参考文献として。『日本の仏像200』と『写真図解日本の仏像』なども描画解説資料として。「老いて後に学ぶ」の参考文献に『正法眼蔵(サンプル版)』『空の発見』などがあげられる。そのほか数冊はいわゆる教養本としてダウンロードして頭の切り替え用に目を通している。1万冊と言われる蔵書の中から選ぶのだから、眼に入れるのはその氷山の一角に過ぎないだろう。
かくして『電子書籍』と言われる豊饒の海に浸って漂うPCという名の船を操るのもまた楽しきかなである。
2017.11.10 道(みち)と道(どう)はどう違う
道というと直ぐ思い浮かぶのは道路である。物の運搬や人の往来に欠かせない道路。色々な形態の道路がある。高速道路、国道、県道、市道、私道、林道と道には数えきれない数の名称がつけられ、全国津々浦々に張り巡らせている。
かつて「すべての道はローマに通ず」という有名な諺があり、ローマ帝国の全盛時代世界各地の道が首都ローマに通じていたことから、物事が中心に向かって集中することのの喩になった。シルクロードの旅などは気の遠くなるような道程であったことだろう。人は富のためにはすべての障壁を排除して進むという証でもあろう。
「人生道半ば」などという言葉もあるが、これは時間の経過を道になぞらえて人生の中間点という意味で使われる。今では、人生100年の時代も近い。そうなると50歳はまだ道半ばということになる。近世の時代では人の平均寿命だから、時代によってその尺度も変わってくるし、ローマも又飛行機で一っ跳びという時代になっている。
技術の革新は道の構造すら変えている。地下道が縦横にめぐらされ、生活に必要なインフラが埋められている。地下空間を使った地下鉄も都市の重要インフラになっている。
一方、道を「どう」と読み替えると全く違うものになる。武道の道場などは剣道、柔道、空手道など武術のスポーツジムとなっている。本来この道(どう)は武士が生み出したもので、武士道に代表されるように「主君のためには命を捧げる」精神を内に秘めている。そうした覚悟は「正々堂々闘う」というフェアプレーの精神を産み、正道を歩むということを体得させていった。
どこの世界にも道を踏み外す者はいる。それを「邪道」といったり「外道」と呼んだり、更には「極道」などと言って、反社会的行為をする者を示す代名詞に使われている。
人の道(みち)は物理的道ではなく、「どう」に近い精神的側面が強いようで、人の道に外れないようにという戒めの言葉などに多用される。
私の場合は最早残された道をいかに生きるべきかという段階に入っている。一日一日を大切に生きなければならない。
2017.11.13 思い込み
年を取れば取るほど思い込みが激しくなる。このテーマは2017.7.26「掛け違い」の類と似た面があるが、下着を裏表取り違えるのと、125と三桁に設定した暗証番号を123と思い込んで蹴られるのとは事情が違う。左回しか右回しかの取り違えは感ちがいであって、暗証番号などの数値を間違って覚えていることとは、事実を誤認している所に大きな相違点がある。
最近のITの進歩は個人認証ということが非常に重要視され(当然であるが)、あらゆるアプリやAmazonとか楽天などの活用には、その入り口としてID及びパスワード設定しなければ関門(ログインという)を通ることができない。IDは通常メールアドレス(メアド)が使われることが多い。これは私の場合固有のメアドを指定されるもの(スマホのGメールやアップルIDなど)もあって5つか6つある。その中から選んで、それにパスワードを付けるのだから、中々覚えきれるものではない。そこで結構ものによっては同じIDとパスワードの組み合わせで登録してあるものもある(あまり勧められるはなしではない)。当然記憶などできないから一覧表にして管理している。プラスチックのA4カードケースに入れていつでも見られるようにしてある。
さて思い込みであるが、たまに何かの拍子にIDやパスワードの入力を求めらられることがある。そうした時、一覧表を引き出すのが面倒なので、うろ覚えの(確かこうだったという思い込み)で入力すると大概ミスすることになる。それほど人の記憶は年と共に不確かになっているということである。
他人の記憶というのも厄介で、変に昔の貸し借りを忘れない人がいる。記憶力がいいのか分からないが、貸した側に多く、「昔君に何々という本を貸したよね。まだ返してもらってないよね」とくる。借りた側は何十年も前の本の貸し借りなど覚えているいるわけもなく、「そうだったのか。それは悪いことしたね」と謝るか、「いやその本は絶対返したはずだ」と突っぱねるしかない。これは双方の思い込みもあるが、恩の貸し借りと同じで、貸した方の言い分の方が正しいことが多い。
何れにせよ一つの思い込みに拘ると碌なことはない。古い貸し借りなどの記憶は、速やかに忘却の彼方に捨て去るのが最良の選択である。
2017.11.17 友情
私には50年来の付き合いのグループがいる(以前にも紹介した)。いわゆる同期の桜といった仲間たちである。在職中から同期会を作って毎年会合していた。その付き合いは退職後も続いたが、結局麻雀ができる6人に絞られた。退職後の付き合いは麻雀を楽しむ会のようなものであるから、そのグループだけの会合が15年間毎年4回ほど顔を合わせる。
多分これだけ長く多くの回数を共にする仲間などそうざらにはないだろう。これだけ続くと一種の連帯意識なようなものが生まれ、スケジュール調整はするが、大体全員が揃うことが多い。麻雀に始まり麻雀で終わるのだが、今回は少し変わっていて、私は参加したが右手がまだ使えない状態で、麻雀はできなかった。
麻雀は4人で争うゲームだから、私を除いた一人が必ず抜けることになる。それが長い間で初めてゆっくり一人一人と話し合える機会を産んでくれた。いろいろな話ができたが、言葉の端々に私の体を心配する気持ちが感じられ、改めて友達とは有り難いものだと思った。
ここで「友情とは何ぞやと」とオーバーに語る気はないが、少し考えてみた。私の認識では友情が培われるのには長い時間がかかるということだ。大体50年の付き合いの中で生まれたが、一種の絆のようなものが生まれたのは退職後の15年の間である。双方を無条件で認め合うことができないと真の友情とは言えないだろう。少しぐらい諍いがあっても、すぐ忘れて付き合えるようでないと、本当の友情は生まれない。今回の私に対するいたわりの気持ちをお互いに抱くことも友情の証だろう。性格も年齢も趣味も生活環境も違う同士が意気投合できるということは半端な関係では生まれない。利害得失もなく、いわば義理人情の世界を共有する仲間と言ってもいいだろう。
お互いが高齢になり人生の最終地点が近いづいていることも認識している中で、一時青春時代に戻るのも同じような経験を長く共有した間柄だからこそであり、それも友情を築くうえで欠かせないものなのであろう。
もとより家族を一番大切にしなければならないことは言うまでもない。その次に大切なのは友情という無形財産だと私は思う。
2017.11.20 気分転換
腰が悪くて家でごろごろしていたが、くさくさするので、リハビリを兼ねて家の周辺の裏道を散歩しようと家を出た。歩く時は不思議と足腰が痛まないので、出かける決心をしたわけだ。それでも足元が覚束ないので杖を持って出た。慣れないせいか杖とのバランスがうまくとれず、かえって荷物になったような気がしないでもないが、「転ばぬ先の杖」という喩もあるから、いざという時の支えにはなったはずだ。
今回は僅か距離にして400mぐらいで切り上げたが、外の空気は初冬らしく冷たく、清々しかった。夕方4時ごろだが西日が強く射し、自分の影が足長の巨人のように舗装された道に映っていた。
一戸建ての住宅の裏にはサザンカやキク科の黄色の花が彩を添え、カエデかモミジかは知らぬが半分ほど赤味がかって色付いている。まだ緑の木々が枝に繁っているが、既に冬の足音が遠くから聞こえるような一時であった。
散歩に出たのには他の理由もある。家に引き籠っていると頭の回転が鈍り、このコラムの話題にする事柄が浮かんでこない。そこで外の空気を吸うことで気分転換を図ろうと試みたわけである。気分が変われば何かアイデアは浮ぶだろうと期待したが、結局歩く距離が短すぎたのか、頭はすっきりしたが空っぽのままで終わってしまった。
何でも身の回りの雑事を書けるのが、このコラムの特色でもある。そこで今回は「気分転換」に外を散歩したことを、そのまま書き記すことにした。
身の丈が 長く影ひく 西日かな 風楽
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