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2017.2.4 収納(食器)

 食器も生活に欠かせない道具である。食生活の変化は食器にも如実に表れている。ガラス食器・ステンレス製のスプーンやナイフ・フォーク・コップ・プラスチック製食器など幅広い素材が使われている。それに伴い収納場所も壊れ物と、壊れないものとでは扱いが違ってくる。
 我が家の場合食器の収納場所は2つある。一つは食器棚で、もう一つはダイニングテーブルの下の収納引き出しと、引き戸のあるスペースだ。ガラスなどの食器は食器棚のガラスの引き戸の中の棚に収まって、所在が見える。皿などはその下の木製の引き戸の中の棚に収納されている。これはダイニングテーブルの下の棚も同様だ。それでほとんどの食器類は収納されている。
 時代を遡ってみると、食器の種類も茶碗など木製が多く、ついで土鍋などの陶器が思いつく。これらの食器はどのように収納したのだろうか。
 昨今ではあまり見かけられなくなったが、茶箪笥というのがつい最近まで一般家庭には置いてあった。これはもとは茶道具などを置いた茶棚から発達し、違い棚、袋戸棚、引き出しなどを組み合わせたもので、ここに茶器・菓子器・飲食器などを入れ、茶の間や居間に設置した。別名飾り棚・脇棚・側箪笥 とも呼ばれ、総称して「みずや」と呼んでいた。高級材の紫檀・黒檀から実用向けの桐・桑・神大杉で作られていた。最近はガラスを使ったサイドボードのような食器入れが主流となっている。
 洗ったばかりの食器は今は流し台の脇に金属製の籠に水切り用においてあるが、昔も似たようなものに 茶碗籠といって、洗った後のご飯茶碗やお皿を伏せておき、水を切ったり、収納や運搬に使う籠があった。

2017.2.7 運ぶ(車輪)
 生活文化の移り変わりを見ていく上で、大きな転換点がある。私はその分かれ目は、明治時代の欧米化が進んだ時期とそれ以前にあると見ている。取り上げる対象は、大体の目安として、明治から平成に至る近現代と江戸時代の近世という区分としたい。
 今回のテーマは「運ぶ」であるが、私が生活してきた時間軸で見ても、大きな変化が見られる。幾つかの例を上げてみよう。
 自分の経験した運搬具は車₍車輪₎の付いたものが多かったので、そうした運搬具₍自転車など₎に限定して思い返してみる。
 小どもころの記憶を辿ってみると、はじめて自分で運転したのは三輪車がある。つぎのステップの自転車は乗りこなすまでに何回も転んで怪我をしながら体得したものだ(当時は補助輪等はなかった時代である)。
 今住んでいる場所は登り坂が多く、いつか自転車に乗らなくなり、廃棄処分した頃に電動自転車が出始めた。今では我が家の近くの坂道を前後に子どもを乗せたママチャリが走り回っている。あれは画期的に自転車の性能を向上させ、廃れつつあった自転車を復活させた。
 話を過去に戻し、戦後よく見かけたのは荷車である。動力源が馬だったかロバだったかは確かでないが蒸しパンを売りにやってくる馬車は記憶に強く残っている。牛を動力源としたのは今のバキュムーカーの元祖で 屎尿の桶を運搬する大八車とも呼ばれた牛車が定期的に回ってきたのもよく覚えている。
 家にはリヤカー(金属製のパイプと空気入りタイヤで構成された2輪の荷車で荷物を運ぶために、自転車の後ろにつけたり人がひいたりする二輪車:WIkipedia)があって、それに小包を積んで駅まで、人力で運んだのを覚えている。今でも売られているようで、たまに見かけることがある。
 このように物を運ぶのには昔から車輪(通常2輪一対)が付いた荷車が最も適している。
 現代になると輸送手段はより多様化してきているので、これについては次回に譲る。

2017.2.10 運ぶ(動力革命)
 運輸手段の発展は20世紀から21世紀にかけて目覚ましい進歩を見た。
 今回はエンジンで動く自動車がもたらした生活文化への影響を中心に考察してみた。
 日本では今でこそ世界に名だたる自動車の生産国になり、国の屋台骨を支えているが、これこそまさに米国から伝来したものだ。私の記憶ではシカゴのギャング時代に走り回ったT型フォードの形が自動車の原型だ。
 国産車の記憶はそれに似た姿をしたダットサンだった。戦後横浜市は米軍に多くを占領されていたから、ジープや将校の乗るシボレーやキャデラック、デソートなどのアメ車の走り回る姿を見て育ち、自然に名前を覚えるようになった。今でもそのせいか車の車種はすぐ覚えてしまう。
 車はそれだけ戦後文化の象徴であり、個性的な乗り物なのかもしれない。
 話が脱線したが、太いゴムのタイヤを四つ着け、ガソリンを燃料としたエンジンを付けて走る自動車の登場は20世紀の華である。子供の頃にはお大尽の乗り物で、一生自分は車は持たないと思っていたが、30歳代には中古のトヨペットに乗っていた。それもノークラッチのオートマだった。それゆえギヤチェンジの自動車の基本操作をしたのは、運転免許を取った時だけである。今は運転をしないが、ノークラしか運転できない。
 それはさておき、陸上で物を運ぶものと言えば自動車である。その種類たるや数え切れない。荷物を運ぶトラック、人を乗せるバスやタクシー、大きなものを運ぶトレーラー、荷物を倉庫内で移動するフォークリフト、建築現場工事に欠かせない重機。緊急用の救急車とあらゆる分野で活躍している。
 いまこの自動車の心臓部のエンジンで革命的変化が進んでいる。それは電気の利用である。これは短距離の物の移動にしか使えなかった電気自動車が一般の大形クラスやバスなどにも使われるようになったことだ。この先進技術がハイブリットカーの出現で、トヨタのプリウスが乗用車の先駆者だ。ガソリンエンジンと電池とのコラボレーション。これぞまさしく日本人特有の応用技術の成果である。街を走る車の半数近くがいまやハイブリット車である。
 次のステップは水が原料の水素エネルギーの自動車や太陽のエネルギーを使った自動車の登場となるだろう。リチューム電池の改良が進み、家で充電して一日中走り回ることができる電気乗用車の実用化も目前である。これらは公害対策から開発された技術だが、日本の技術者は何か不可能と思われる課題を与えられると、まるでドッグレースのようにガムシャラにゴールを目指す特性を持っているようだ。今後の動向に目が離せない現状だ。
 次回は他の動力源で動く「運ぶ」と、近世以前の「運ぶ」を考察してみたい。

2017.2.14 運ぶ(船)
 日本は周囲を海に囲まれた島国で、気候も雨に恵まれ、多くの川も存在する。
 古代より舟は大切な運搬手段であった。今回は船がどのように発展し今日に至ったかについて考察してみた。
 日本の舟は独自の構造をもっている。古代は丸木舟であるが、基本はここにあり、今のように骨格を先に組みそこに板を張っていくのではなく、単に板を継ぎ合わせて大きくしていくという特色がある。
 これは西洋の船と比べ竜骨や肋材を使わないものだった。「古くは古墳時代の順構造船、平安時代の遣唐使船、諸手船(もろたぶね:古代船の一種で丸木舟に始まり、重木といって板をつづり合わせて大きくした船で、出雲神話に出てくる)、明治時代の打瀬船、丸子船、高瀬舟に至るまで、和船は全てこのような基本構造を持っており、風土や歴史に応じて多種多様な発展を遂げた(wikipedia)」
 日本の地理的条件からいっても、物や人を運ぶのに陸路より川や海を使うことは理に叶っている。陸路では馬では1馬力だからせいぜい米2俵というところが、船それも千石船と呼ばれる船なら1800俵も運べたというから各段の効率である。
 船の推進力と言えば櫂に始まりオールや帆が思い浮かぶが、エンジンでスクリュウー(正式にはスクリュープロペラ というそうだ)を回し推進するというアイデアの起源はアルキメデスにまで遡る。アルキメデスは灌漑用に水を汲み上げたり、船底に溜まった水をくみ出すのにスクリューを使った。それが最初で、 初のスクリュー推進の蒸気船は1839年に建造されたというから実用化にはずいぶん時間がかかったものだ。
 幕末(1860年 )に勝海舟率いる咸臨丸が、初めてアメリカへの航海に出るが、この時乗船した船はオランダで造られた木造船で、写真を見ると三本マストで主に帆走したようだ。蒸気タービンでスクリューで推進することもできる二重構造だったそうだ。
 それが今や5000人もの人を乗せ外洋を航海するクルーザー船などを桟橋で見かける。まるで動く10階建ての巨大なマンションのような姿をしている。
 内燃機関も燃料が石炭から重油、そして無補給で長い航海が可能な燃料として、軍事用ではあるが原子力が使われるようになった。しかし、この燃料は環境上に問題がある。安心・安全な燃料が開発されれば、船の役割はまだまだ続くはずだ。次回は他の運搬手段について考察する。

2017.2.18 運ぶ(飛行機)
 このテーマの最終回は飛行機で纏める。
 今の時代では外国に限らず国内でもより早く目的地に着くためには、飛行機という存在を抜きには考えられない。
 飛行機による有人動力飛行に世界で初めて成功したのは、アメリカ人ライト兄弟で1903年のことである。この兄弟は世界最先端のグライダーパイロットでもあったというから、グライダーや飛行船などは既に存在していたことになる。
 ライト兄弟が初飛行に成功してから、35年後に世界は戦乱の世へと進む。この時飛行機も軍事目的で飛躍的発展を遂げる。
 より速く、より多くを運ぶという研究が戦争をきっかけとして進歩するというのも皮肉な現象だが、科学技術の発展が戦争という極限状態の中でより高度なものに変わっていくことは、歴史が証明している。
 日本も世界に列して引けを取らない航空技術を持っていた時代がある。この技術は世界大戦ですべて失われた。空を飛ぶという手段を失ったということは、羽根をもぎ取られた鳥のようなもので、それは現代にまで長い影を残している。日本の空を飛ぶ航空機は外国製ばかりというのも寂しい限りだ。
 日本が休んでいる間に、世界の航空事情は民間用にシフトして、ジャンボジェット(B747)のように大型で長距離を飛ぶことができる飛行機が誕生する。1969年のことで、それを契機に各国で 大型輸送機の開発が進む。高速性能を誇ったコンコルドは、ジャンボジェットのライバルと目され、ジャンボジェットはコックピットを2階に持っていき貨物輸送に転用も考えられた時期があったそうだ。ところが華々しく登場したコンコルドは、超音速で飛ぶため、 ソニックブーム(衝撃波)などの環境や、長い滑走路が必要なこと、加えて極端な燃費効率の悪さが原因で、2003年には運航を終了することになる。
 こうした航空業界の激しい技術争いの外で日本の航空機産業はライセンス生産しか許されず、独自の開発は現在進行中の三菱重工のMRJに期待が込められている。
 これは純国産製で初のジェットエンジン搭載の中型機でである。デビューは来年あたりになるだろうが、これが成功すれば、日本の飛行機が世界の空を飛び回ることになり、日本人の職人技は空でも高く評価されることだろうと秘かに期待している。

2017.2.21 古来の調度品と錠前
 日本の家具(2017.1.24)でも取り上げたテーマだが、今回は今はあまり見られなくなった家の調度品と錠前を取り上げてみた(日本を知る事典)。
 奈良時代の絵巻などを見ると、部屋の間取りをせずに仕切りに使う調度品が多く存在した。どのようなものかと言うと、防寒・防風や人目を避ける目的のために各種の屏障具(へいしょうぐ)が広く使われている。
 その中には今では文化遺産や古民家または映画でしか見ることができなくなったが几帳(きちょう)・屏風・簾(すだれ)などを上げることができる。
 また家の開口部や間仕切りための用具は建具というが、これには板戸・雨戸・格子・蔀(しとみ:格子に板を張って長押から釣り下げ、日光・風雨を防いだ)などが使われた。
 部屋の間仕切りなどは夏などは取り外し、簾や暖簾(のれん)を吊るのが一般的だった。民家の入り口に小さな潜り戸が付いているのを時代劇などに出てくる大店で見かけるが、これは店の入り口などにある板戸の一種で幅約一間の重い戸で大戸と呼んだそうだ。
 板戸は杉板を貼ったものを杉戸と呼び、屋久島の千年杉一枚板を用いたものが最高級品とされた。
 家の開口部から泥棒などの侵入を防ぐためには錠前が考えられるが、昔は割合軽微な守りで、しんばり棒や閂(かんぬき)などを使った。村などは村人の連携が強く、外来者は疎外されたので、住家の鎖錠を必要としない所も多かった。ただ別棟になっていて無人で、しかも食料や大切な衣類・器物などを保存する倉・土蔵・納屋とか寺社などは、錠を取り付けて防御した。錠の単純な形式は「さる」と呼ばれる辷り(すべり)桟を戸の下端に取り付け、それを柱などに穿った受け穴に差し込むという形式が多く、これを開けるには戸に穿った小穴からクの字型のカギを差し込み、その先端のかかりで「さる」を引き上げるという凝った仕掛けであった。南京錠(江戸時代に渡来した小型の鍵つきのもの)もあったが、近世では珍しいもので、普及するのはずっと後の世の中になってからである。

2017.2.24 「しつけ」を考える(1)
 「しつけ」ということが問題視される現在。ごく当たり前のように行われていた子どもに対する教育の一環とも言える「しつけ」がそんな単純なことでは済まされないことが分かってきた。
 今回は少し掘り下げて子どもの「しつけ」を考えてみることにする。
 「しつけ」は「躾」とか「仕付」と漢字表記されるが、それぞれに意味するものがある。「躾」という字は中国から伝わった漢字にはなく、国字といわれる日本で作られた言葉である。この漢字の起源は「しつけの対象を礼儀作法に限定する武家礼式の用語として生まれた」とあり、仕付とは分けて使われたようだ。
 一方の「仕付」は「着物を縫う時,あらかじめ形を整えるため仮に縫いつけておくことを仕付けというが,大切なことは,いよいよ着物が本格的に縫い上がると,しつけの糸をはずす,ということで、しつけの糸はもはや不要であり,この「はずす」ことが,子どもの発達にとっても重要な意味をもつ(WooRisより)」 といったように両者とも子どもを教育することに変わりはない。
 それでは誰が子どもをしつけるのかとなると、これは時代によって異なる。
 我が国の伝統的なしつけの類型は「家」を中心に家風、家職、家芸と言ったものを伝えるために、子孫を仕込むことに重点が置かれていた。その代表的な例が「家訓」と言われる武家の基本方針を示したものを上げることができる。以下に示すのは、室町幕府の管領・斯波義将が子孫のために記した家訓「竹馬抄」(wikipedia要約)の一節である。
「第一条  人の立ち居振る舞いについて、人の行為はその人の品格や心を表しているのだから心美しく誠実に、また、外形も整えておかねばならない。
第二条  親子関係について、親の教えを決して軽んじてはならない。
第三条  神仏を崇敬することについて、心をいさぎよくして仁義礼智信を正しく持って人としての根本を明らかにせよ」といったように10条にわたり細々と定めている。
 このようにしつけは家を守るためには不可欠な教育の一つであったことが分かる。以下次回に続く。

2017.2.27 「しつけ」を考える(2)
 しつけを受けるのは、幼年期・少年期・青年期にわたり長い時間がかかるものである。それぞれの時期で当然受けるべきしつけの内容も異なる。
 幼年期はひとり立ちするための基礎段階であり、食事、排泄、寝る時間、手洗いなどの清潔、片付けなどの整理、言葉遣い、遊びと家の手伝い、安全教育など多くを習得する時期となる。近代までは大体家の年寄りが教え込んだということだ。これは農家など家業に両親が忙しく働いていたためで、大体が大家族であったので、年寄りや年上の兄姉が世話をしながら、言い習わしや、昔話を聞かせることを通じて体得させていった。こうして子どもはことばや、生活習慣を身に着けていくという図式ができていた。
 小学校に上がるころになると環境が大きく変わる。学校という学ぶとともに共同で行動するという社会参加を通じて体得していくことが多くなる。また、農家などでは一緒に畑に出て、農業の技術を見習う。試行錯誤しながら自ら体で覚えることになる。社会に初めて参加することになるので、挨拶や約束、行事作法などの社会的ルールも厳しくしつけられる。
 さらに青年期は、15歳前後から結婚するまでの時期で社会人として一人前の完成を目指すとともに、社会参加により社会のルールや性の成熟により性体験も学んでいく。この年代になると教わるより自分でコツをつかみ悟らされることが主眼になる。特に閉鎖的な村の共同生活においては、叱られて体得するよりも、未熟さゆえに人に笑われる方が身に応えることで、人前に出ても恥ずかしくなく、人に笑われることもなくなるのが目標となる。
 このように近代以前の社会では、自分の村で一生を過ごすことが多かったから、伝統的な生活様式や型をこうして受け継いで一人前に育っていった。
 これは農業だけでなく、諸職人や商人、さらに芸事に携わる者も同様で、徒弟奉公や門弟修行においても、教わるより、、見習う(真似る)ことが第一とされた。厳しいしつけにより、欠点が矯正され、本人の自覚や自発性を促すことが重視され、一種の悟りの境地にまで導いていくことが、しつけの極意ともされた(ジャポニカ百科事典)。その過程で軍隊の訓練のようにスパルタ的な要素も強くあったことも事実だ。
 その結果、戦後社会や家族の仕組みが大きく変わり、それに従ってしつけそのものの形は大きく変貌することになる。次回に続く。