このシリーズは富嶽三十六景を10枚づつスライドで紹介するもので、今回はその四弾目の10作品。解説は浮世絵のアダチ版画オンラインストアを参照させていただいた。
31五百らかん寺さざゐどう
現在の江東区大島町にあった、黄檗宗(禅宗の天恩山五百羅漢寺を描いていたもの。芸妓・子供・武士など様々な階級の人を描き分けた、北斎の表現力の素晴らしさを象徴する作品で、不思議な空間の広がりを感じさせる。
32尾州不二見原
現在の愛知県名古屋市郊外、富士見原を描いたもので、遊郭や武家の別宅が存在する名勝地として知られていた。北斎が幾何学的構図を好んで使ったことを説明する時に必ず登場する作品。丸い桶を通して見える三角の富士。「桶屋の富士」とも呼ばれ、人物や桶の描写も非常に細かい傑作。
33住千住花街眺望の不二
江戸から一つめの宿場として千住は栄えていた。絵の中景の家並みが千住の花街。花街を背景に、大名行列と富士という江戸の名物を全て描いてしまった北斎の心憎い意図を感じさせる作品。
34隅田川関屋の里
隅田より千住河原までの一円の地をさして関屋の里という。牛田堤を馬で疾走する旅装姿の3人の武士。この躍動感のある近景に対して、静かで雄大な富士を遠景に持ってきた北斎の心憎い構図。色使いや馬の細かい描写など、北斎の醍醐味を満載した作品。
35江尻田子の浦略図
田子の浦は、もっとも富士山が見えるところとして有名であり、『万葉集』にも詠われている。本図は、東海道吉原宿の沖合からの風景といわれている。北斎は、近景に漁船と波を描くことで、裾野がすっと伸びた富士山をより印象的に見せている。北斎らしい雄大でかっちりとした風景画。
36東都浅草本願寺
今も観光客で賑わう浅草本願寺。もと東本願寺末刹として神田明神下、昌平坂の外にあったが明暦の大火で、現在の西浅草に移ったと言われている。当時江戸庶民を驚愕させた浅草御坊の巨大な屋根。雲をつくような火見やぐら、空高くあがった凧、そして富士、これらをほぼ同じ高さに描いたこの作品は、北斎の奇抜な構図感覚を象徴している。お正月のすがすがしい空気が伝わってくる。
37武州千住
千住は、日光街道、奥州街道の第1宿場として栄えた。隅田川の上流で、荒川と綾瀬川とが合流するところから冨士が眺められた。仕事の合間に富士を眺める馬子(まご)を、表現力たっぷりに描き出している。富士の美しさを際立たせるために使われたのが、手前に描かれた水門。幾何学的な構図を好んで使った北斎らしい作品。
38甲州石班澤(かじかざわ)
富士川に面する鰍沢(かじかざわ)の南側にあった禹之瀬(うのせ)と呼ばれる渓谷付近をイメージしたと言われている。自然の鋭く厳しい一面を、漁師の親子が岩上から投網を引き上げようとするこの図に集約させている。藍の濃淡だけで表現した大変色鮮やかな作品。
39東都駿台
神田駿河台。当時この附近には武家屋敷が立ち並び、高台から望む富士は美しかったことが伺われる。荷を担ぐ行商人の姿、巡礼、お供を連れた武家、額に手をかざすもの、扇で風を入れる者と大変季節感ただよう風俗描写となっている。
40登戸浦
登戸浦は、現在の千葉県千葉市にあり、当時は江戸湾の湊で江戸築地に荷揚場を持ち、年貢米や海産物を房総半島から江戸に海上輸送する拠点の一つだった。また、このあたりの海は遠浅朝で潮干狩りの好適地として知られていた。画面中央に置かれた神社の大きな鳥居(原画は白木づくり)越しの遠景に富士山が望める。
(2017.7.29)