言葉は生きている。使いよう次第でいかようにも効果を生み出すことができる。
人の世界の現実は厳しいものだ。そこには息抜きが必要である。息抜きの効果は一種の清涼飲料のような働きをする。そこが「ことば遊び」が人に親しまれる最大の魅力である。
日曜日の夕方テレビ番組で「笑点」という落語家集団による「ことば遊び」がある。私は面白いのでよく観る。一種のなぞかけだが、色々な展開がある。「○○とかけて何と解く」とか「こういう問いをするから、なんか気のきいた答えを返しなさい」といった類で、話のタネは尽きないものだ。
そこでこの「ことば遊び」について歴史的背景も踏まえて調べてみた。「参考文献;鈴木 棠三(とうぞう)編 新版ことば遊び辞典:Wikipediaほか」
日本語には、表音文字と表意文字の混在による独特の隠れたユーモアが隠されている。それを引き出したのが「ことば遊び」のルーツである。
どのような話が「ことば遊び」の題材になるのかをリストアップすると「ぎなた読み」という遊びがある。この面白さは文章の区切りを間違えて読むこと、またはわざと文章の区切りを意図的に変えて読むことで、「 弁慶が、なぎなたを持って」という文を、「弁慶がな、ぎなたをもって」と間違えて読んだことに由来する。今の時代ではパソコンの誤変換で「 おとうさんがくるまでまつ。と打つと→お父さんが、来るまで待つ。だったり→お父さんが、車で待つ」となるように、日常茶飯事のように誤変換が起きる。
「 ことわざパロディ」というのは、ことわざをもじって、面白く、可笑しくしたもので、「 泣く子は目立つ(泣く子は育つ)、 雨降って地崩れる(雨降って地固まる)」とリズミカルな響きをもつ「ことば遊び」として知られている。
誰もが知っている「しりとり」は説明不要の「ことば遊び」であるが、これに似た、あまり知られていない 「つみあげうた」という遊びは、文章に後から文をどんどんと継ぎ足していく言葉遊びのことで、「きりなしうた」とも言う。例として、Wikipediaから マザーグースの「これはジャックが建てた家」を紹介すると、
- これはジャックが建てた家
- これはジャックが建てた家にある麦芽
- これはジャックが建てた家にある麦芽を食べたネズミ
- これはジャックが建てた家にある麦芽を食べたネズミを殺したネコ
- これはジャックが建てた家にある麦芽を食べたネズミを殺したネコをくわえたイヌ
これはほんの一部で本文は再現もなく続いていく。
「倒語」という遊びは、子どもの頃よく使った「てぶくろ」→「ろくぶて」など が代表例で「 言葉を逆の順序で読む言語現象。逆読み、または逆さ読みとも言う」地名なども「ザギン = 銀座」、「ノガミ=上野」、「ワイハ=ハワイ」などは大分前に流行ったので、聞き覚えがあるのではないかと思う。
次なることば遊びは「どちらにしようかな」である。やり方は、両手の握り拳の中に隠し持ったを当てる遊びで、最後の一音の時に指を差している方に決定するというもので「どちらにしようかな (天の) 神様の言う通り」が一般的である。
「どちらに」が「どっちに」になったり、また複数のものから1つを選ぶ場合は「どちらに」が「どれに」になったりする。小学生を中心に多用され、地域ごとにバリエーションが異なっていることも多々ある。 私の子ども頃は「どれにしようかな 神様の言う通り 」だったような記憶がある。
「なぞかけ」も代表的なことば遊びのひとつで、『笑点』でも紹介したように、なぞかけの形式は「○○とかけて××と解く。その心は□□」というもの。 ○○と××という一見なんの関係もなさそうなものを提示し、共通点として□□を示す。落語家などが大喜利などで余興として頻繁に行っているあそびである。一例をネットから拝借すると「枝豆とかけまして、竹刀と解く。その心は、さやは要りません」とか「エアコンとかけまして、盆踊りと解く 。その心は、オンド(温度・音頭)が肝要です」などがあげられる。
「もじり句」というのは、かつて大流行した五七五の短詩型文芸で、これは作るのには頭を一ひねりも二ひねりもしないと、浮かんでこない難しい、言葉の二重構造を楽しむ言葉遊びである。形の上では俳句や川柳と同じく五七五であるが、中の七音が二つの異なる意味を持って、上の五音と下の五音につながる構造をしている。江戸時代に始まった文芸で、300年近い歴史を持っている。江戸時代のもじり作品例「御祖師さま 有難かりし/ 蟻が集(たか)りし瓜の皮。籠枕 転た寝にする/歌、種にする 恋の文。炙り餅 焦がしゃ固なる/子が釈迦となる 摩耶夫人。親に孝 するが第一/駿河第一竹細工。瓦屋根 葺くと腐らぬ/福徳去らぬ 長者の家」となかなか乙なものである。現代風のものでは「預けても 最低の利子/咲いて祈りし彼岸花。生命の水 沢が鹿には/騒がし蚊には殺虫剤。呼び出され 至急出る家/四球で塁へゆっくりと。時は行く 隙間も無くに/好き間もなくに惚れた仲」といった風になる。
これも簡単には作れないが、「回文(かいぶん)」という遊びがある。上から読んでも下から読んでも同じになる語句をいう。「竹屋が焼けた」は誰もが知る例だが、現代でも「西が東に(にしがひがしに)」や「よき月夜(よきつきよ)」などがあげられる。時代は遡って室町中期以前と伝えられるもので「長き世の遠の眠りのみな目ざめ波のり舟の音のよきかな(現代読み:なかきよの とおのねむりの みなめざめ なみのりふねの おとのよきかな)」は短歌(宝船)の一首で回文歌と呼ばれた代表作として今に伝わっている。とてもめでたい歌で、初夢で良い夢を見るために、七福神が乗った宝船の絵にこの回文の歌を書いて枕の下に入れて眠るという風習は長く続いたという。
次なる「ことば遊び」は語呂合わせ、 早口言葉 、洒落などである。
「語呂合わせ」というのは、 言葉にリズムや音感を持たせて馴染み深くしたものである。文字を他の文字に換え縁起担ぎを行うものや、数字列の各々の数字や記号に連想される・読める音を当てはめ、意味が読み取れる単語や文章に置き換えることを指す。ことば遊びというより、覚えやすくするために数字に置き換えるケースが多く、「時の風物詩」の行事には毎月26日は風呂の日といった類はとても多い。高校生の頃歴史の年号を覚えるのに「 いい国 作ろう鎌倉幕府(1192年源頼朝が鎌倉に幕府を開いた)」とか、5の平方根は「富士山麓鸚鵡鳴く(2.2360679)」などとして覚えたものだ。語源は 「『呂律が回らない』 に始まる。言葉の調子にもなぞって『 語呂』 といった」とあるように、一種の言葉の洒落である。
「早口言葉」は『なまむぎ・なまごめ・なまたまご』や『 青巻紙赤巻紙黄巻紙』のように、口が回らなくなるようなことばを、あえて言うもの。「言いにくい言葉を通常より早く喋り、うまく言うことができるかを競う言葉遊び(Wikipedia)」とある。「蛙ピョコピョコ三ピョコピョコ合わせてピョコピョコ六ピョコピョコ」などは誰もが知るものだが、これは元々は「池ばたけに蛙がぴょこぴょこ三ぴょこぴょこ合わせてぴょこぴょこ六ぴょこぴょこ(信濃地方)」といった風に「日本昔話」の世界に戻ってしまうようだ。
「洒落」は「なぞかけ」に次ぐ「ことば遊び」の代表格で、歴史は古いが最近女の子にバカにされる「親父ギャグ」なども「駄洒落」の一つと言っていいだろう。
語源由来辞典によれば、[洒落の語源は、「晒れ(され)・戯れ(され)」が転じたとされる。「晒る(さる)」は、長い間風雨や日光に当たり、白っぽくなるという意味が原義。「戯る(さる)」は、「たわむれ」の意味(なお、洒落の洒は酒ではない)。これらの意味から、「洗練される」「しゃれて趣がある」という意味になった。「され」が「しゃれ」となったのは、室町時代以降である。漢字で「洒落」と書くのは、心がさっぱりして物事にこだわらないさまを意味する漢語「洒落(しゃらく)」に由来し、意味の上でも音の上でも似ているため、江戸時代の前期頃から、当て字として使われるようになった]とある。
これからは最初に紹介した鈴木棠三編の『ことば遊び辞典』 から抜粋すると。
「洒落」と書いてシャレと読むが、このシャレとは近世町人の趣味生活・享楽生活の最も洗練された理想的到達点といってよく、これを大雑把にいうと、第一には、気がきいた様、洗練された当世風、美装、派手ななりをするなどの意味があり、第二には滑稽、ふざけるなどの意味に用いられた。そして後者の例としては、同音異義による言掛けのおかしみを意図した言語遊戯を、とくにシャレとかダジャレというようになった」と記されている。
実例を二つ三つ上げないとシャレにならないので示すことにした。
・赤ん坊の小便で「ややこしい」・秋の日で「くれそうでくれない」・頭の上のおできで「この上なし」・雨降りの太鼓で「どうもならん(湿気で張りが鈍るので)」とこれは「ア行」のほんの一部で、その気で考えれば誰でも浮んでくるのがシャレのシャレたるゆえんである。
続いて、「地口」と「無理問答」などの「ことば遊び」は紹介する。
冒頭述べたように、ことば遊びは生活の潤滑油。楽しく遊ん記憶に残す。昔から伝わる生活の知恵の一つとである。「地口」と「無理問答」をもって「ことば遊び」の締めくくりとする。
「地口」は洒落の部類に入るが、デジタル大辞泉によれば、[世間でよく使われることわざや成句などに発音の似通った語句を当てて作りかえる言語遊戯で、「舌切り雀」を「着た切り雀」といったり、「案ずるより産むがやすし」を「杏より梅が安し」といったようなもので,江戸時代中期に生まれた]とある。
ここで挙げた例は「有名な文句をもじったもの」だが、ほかにも「韻を踏むことによってリズムをつけるだけで特に意味は無いもの」もある。例をあげると「①美味かった(馬勝った)、牛負けた:②驚き、桃の木、山椒の木:③結構毛だらけ猫灰だらけ:④見上げたもんだよ屋根屋のふんどし」などはよく知られている。仲間内で麻雀などを楽しんでいるとき、何となく口から出るものだ。
同じようなもので「掛詞の技法を使い、後に意味のない言葉をつなげたもの 」がある。例えば「①恐れ入谷の鬼子母神 :②そうはいかないイカの金玉 :③あたり前田のクラッカー :④その手は桑名の焼き蛤」などもその手の「ことば遊び」の一つである。
最後に「無理問答」を紹介すると、これは発祥はお寺の和尚さんとの禅問答で、江戸時代の頃から楽しまれている。形式は、問う側が「○○なのに××とはこれいかに」という形式のお題を出し、答える側は「△△なのに と呼ぶが如し」と答えるものである。
鈴木 棠三 氏によれば[これにはルールがあって、たとえば「一羽なのに鶏(にわとり→二羽とり)とはこれいかに」という問いに対し「一羽の鳥を千鳥というがことし」と答える類で、問と答とは奇抜なほどよいが、ただし主題に距離があってはならない。鳥の問いに対しては鳥で答えるという風に、同類の問答で一対にすることが必要である]とされているが、「①:一人なのに仙人(せんにん→千にん)というが如し。 ②一本なのに牛蒡(ごぼう→五ぼう)というが如し」のように、最近の問答例の中には同類でないものを例示しているケースが見られた。これなどは①の問いは「一人なのに住人(十人)とはこれいかに」に対応すべきで、同様に②の問いは「一本でも人参(にんじん→二んじん)とはこれいかに」とすべきであろう。なお、禅問答については7月3日と6日の「日常細事」で紹介した。
多くの「ことば遊び」について見てきたが、こうした遊びは息抜きだけでなく頭の体操にもなり、何か心和むような気がする。大喜利の遊びだけに終わらせず、日常生活でも会話の中に生かしてみてはどうだろうか。(2017.7.22)