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 改訂版 暦と日本人の生活


(1)陰暦(太陰太陽暦)と太陽暦
 現在私たちが使っている暦は太陽暦といい、明治6年に取り入れたもので、その間千年余りは陰暦を用いていた。このことは日常細事の「生活の知恵」シリーズでも書いている。ここではそのコラムを補完する予備知識として、文献から暦のことを調べて見た。(参考文献:岡田芳朗『陰暦と日本人』実日新書、『 現代こよみ読み解き事典』柏書房、『暦の読み方』日本実業出版社)
 太陽暦の恩恵は陰暦(太陰太陽暦)の比ではないが、それにもかかわらず、日本人の生活には陰暦の祭り事が多く残っている。七夕などは新暦だと梅雨の時期で、ほとんど七夕のイメージにはほど遠い。これが旧暦だとおよそ一ヶ月遅れになるため、七夕の夜の月は十一時頃には沈んでしまうので、星空は一層鮮やかになり、夜の更けるほど天の川は鮮やかに天を流れることになる。平塚の七夕は新暦で、今年の仙台の七夕は旧暦(7月7日→8月28日)で行われる。仙台の方が有名なのはそんな所にあるのかもしれない。
 中秋の名月も旧暦では8月15日であるが、新暦では10月4日となっている。中秋の名月を古人(いにしえびと)は「月々に月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月」と詠むなど風流である。
 月のネーミングにも趣がある。15日が満月(望月)で、1日ごとに十六夜(いざよい)の月、立待(たちまち)の月、居待ちの月、寝待ちの月、更待(ふけまち)の月と来て、二十一日からあとは有明の月という。なお月の第一日を朔月(さくづき)と呼ぶ。
 岡田芳朗氏よれば「われわれ日本人は季節の移り変わりに敏感で、自然をこよなく愛し、詩歌に、書画に、自然を愛でてきたし、四季折々の微妙な自然の変化を慈しんできた。色々な行事や風習も、その多くは季節や自然と結びついている。ところが、太陽暦の切り替えによって、長い間かけて培われてきた日本人の季節感や自然感は犠牲を強いられることになった。陰暦だからこそ存在した文化財が、太陽暦の採用とともに過去のものとなった」と述べている。また、同氏は「地方によっては『月遅れ』という方法を考え出した。これは太陽暦の日付をちょうど一ヶ月ズラして行事を行うのである。旧暦と新暦とでは大体一ヶ月ズレているところから生まれた知恵だろう」ともいっている。このように旧暦の祭事は日本人の「心の故郷」の思い出として生き続けることだろう。
 日本人の知恵の使い方は奥が深く、ここでもこんなに難しい問題に直面しても、何とかして慣習や風習を維持するために日本人ならではの知恵 を発揮して乗り切ってしまう。これは日本人固有の順応性とか適応性もしくは柔軟性の表れであろう。

(2)星占い
 結婚式は大安が吉日。葬式は友引きの日には行わない(火葬場が休み)。といったように未だに暦は人々の生活の中で生きている。迷信と言われようと、日々暦や易占に縛られて生活している人は意外と多いものだ。
 そこで今回は暦とはどういう仕組みで、いつ頃から毎日の生活の中で大きな位置を占めるようになったか調べてみた()。
 人間は太陽を中心とした天空の星の動きから、それらがある一定の周期(サイクル)で動いていることを知った。原始人類は月の姿の満ち欠けで、月が恒星の間を約29.5日で一巡することを知っていたという。人類はこうして月と太陽とその他の天体から、日、月、年からなる、より正確な暦を求めてきた。それが29.53日を一月とする旧暦(太陰太陽暦)であり、365.2422日という太陽暦である。
 このように暦と天文学、それにまつわる占星術は密接不可分なものとして長い歴史を刻んできた。
 バビロニアやエジプトで始まった太陽・月・諸惑星の知識と黄道12宮(ホロスコープ)という西洋占星術に対し、東アジアでは中国で星と人生を結びつける陰陽五行説が生まれ、仏滅・大安といったものも、十干十二支という太陽・月・惑星の運行を土台に決められたのである。
 ホロスコープでは木星を重要な星と位置づけラッキーな惑星・吉星としている。この星は12年でホロスコープ上を一周する。これに対しもう一つ重要な星は土星である。この星は活力の星でありながら凶星で公転周期は29.5年である。古代人は人生80年と見ていたようで、この二つの星の動きで人の人生は運命づけられるとしていた。
 その中に我々老境に入った人間にとって、我が身に振り替えて見ても「なるほど」と思われる記述があるので紹介するとしよう。ホロスコープでは人生の周期を11に区切っているが、その老後に当たる時期が9~11までの記述である。
「9.老後の快楽(71歳~75歳)かつての自分は過ぎ去って新しい生活を他の人より余分にもった喜びに浸る自由な時期。木星のピーク位置で老後の快楽が訪れる。
10.孤独の年代(76~80)土星の凶に支配された孤独の老後。友人たちは死に、知る人もない世界に、新たなものが何もおこらぬ孤独の段階。いつ死が訪れても不思議ではない。
11.再誕生(81歳以上)この時期を運命づける木星も土星も、次の周期サイクルの出発点にある。ここでは生死を超えた法悦の日々をおくる赤ん坊のような吉運の生涯をとげる」とある。
 今や 2015年の日本人の平均寿命は男性が80.79歳 、女性が87.05歳であるから、それから推察するにこの「9~11」の時期は5年~10年ほど先送りするとしっくり当てはまる感じがしないでもない。

(3)暦とお日柄
 町を歩いていて見かける光景だが、どこかしらで建築工事がが行われている。
 空き地の中央に小柱に何やら神社や神棚で見かける白い紙がぶら下がっている光景を見ることが良くある。これは調べてみると、御幣(神祭用具の一つ。紙または布を切り、細長い木にはさんで垂らしたもの)で飾り付けた幣串(へいぐし)といって上棟式に使われる、いわば魔除けみたいな儀式の小道具である。
 こうした慣習はいまだに残っており、短い弊串は、上棟式がおわると、棟に縛り付けて、上棟の記念とするのだそうだ。
 大工さんは際に三隣亡の日には棟上げ式を行わない。これは仕事にかかる日の吉凶を暦で知り、凶日であるからだ。昔の大工さんの仕事は命がけであったのは、最近掲載した北斎の「江都駿河町三井見世略図」を見てわかるように実に危ない作業をこなしていたことからも読み取れる。
 このように迷信・俗信と言われようと、先のレポートで示した大安や友引の類で、家の棟上げや結婚式の日取りを決める時は、六曜や選日などを見て決めるからだ。
 暦の中には様々な吉凶の日があり、人々がそれを見て行動してきたのは、それなりの根拠があり、昔の人たちの生きていくうえで大切な生活の知恵だったのだろう。
 このように暦とお日柄は密接な関係がある。この暦は旧暦によるもので、昔の暦は一冊の本になっていた。これには日付以外にもそれぞれの日付に注が記載されていた。これを暦注という。暦注は、その日が吉の日か凶の日か、何をしてはいけない日か、何をしていい日かを表すものである。一年の内のどの日にも、必ずといっていいほど、その日の吉凶を決める注意書きということになる。この本が日本の本のベストセラーであり続けたことは、生活していくうえで欠かせない存在であったと容易にくみ取れる。
 
(4)六曜
 ここで暦注の内容そのものに目を向けてみることにしよう。まず暦注の主役となった六曜について、その由来を調べてみた。
 暦注の主役となった六曜についてその由来を探ると、六曜は迷信の最たるものではあるが、現在普及している七曜に対抗するなかで、暦のお日柄(暦注)を決めるうえで忘れられない存在である。ところがその起源は実のところよく分かっていないことが多い。最も有力な説は、一か月を指の数である五つに分解して六日づつの小単位を作り、その一回り六日のそれぞれに付けた名称であったのではと考えられている。
 もともとは現在の七曜と同じように、単に日にちを区別するための記号であったのが、やがて吉凶を示すように神格化されていったものと思われている。これは、中国漢の時代に六行説といって、すべての事象を六つに分類して考える思想が流行したが、その流れを汲むものであろう。
 この中国式六曜は、日本へは14世紀頃鎌倉時代末期から室町時代にかけて渡来し、それが貞享(じょうきょう)年間(1684~88)頃から、日本式の日の占いへと変化を見せ始め、名称・順序・解釈も日本独自のものへと進展していった。名称が確定したのは享和から文化(19世紀初頭)とそれほど遠い昔ではない。その200年間の変遷の中で変わらないのは大安と赤口だけで、これは当初からの取り決めだったそうである。もっとも寛政・享和年間には大安が泰安と呼ばれた時期がある。仏滅を物滅と表記されるのを今でも見るが、これは幕末の時の名称で空亡・虚亡という中国流の古い意味に近いといわれる。
 六曜の順番は変わらないが、月は旧暦で行われるので、月の第一日目(朔日)は次のように定められていた。正月・七月は先勝(せんがち)、二月・八月は友引(ともびき)、三月・九月は先負(せんまけ)、四月・十月は仏滅(ぶつめつ)、五月・十一月は大安(たいあん)、六月・十二月は赤口(しゃっこう)として、これを月の晦日まで続けて打ち切り、翌月の一日は前記の順番とするルールである。現在のカレンダーに当てはめるとこの順番は全く当てはまらない。今年の6月1日は大安になっている。旧暦では赤口のはずであるから。何が何だか分からないという現象が起きてしまう。
 迷信といわれても、新暦に切り替わる前の人たちにとってその日の吉凶が直ぐわかる六曜は便利だったのかもしれない。
 六曜の吉凶はどのようなものかというと、
「先勝」先んずればすなわち勝つの意。どの暦の解説にも「急ぐことよし、訴訟事よし」と説明されている。また、午前中は吉で午後悪しともなっている。
「友引」凶事に友を引く、凶禍が友に及ぶの意。「勝負無き日と知るべし」とある。ところがそれが古くから伝わる陰陽道で「友引日」というのがあり、ある日にある方向にことを行うと凶禍が友に及ぶとされた。特にその方向に向かっての葬儀は忌まれたところから六曜と混同されて、どの暦の解説も「この日に葬式を出すことは厳に慎むべし」としている。また、朝晩は吉、正午だけ凶ともなっている。
「先負」先勝の逆で、先んずればすなわち負けるの意。どの暦にも「万事に平静であることが良し」とある。したがって、勝負事や急用事はなるべく避け、控え目にして相手の仕掛けてくるのを待つのが良いとされる。朝晩は凶、昼過ぎから日暮れまでは吉となる。
「仏滅」仏も滅亡するような最悪の日の意。もともと空亡・虚亡をすべて意訳して物滅となり、転じて仏滅となった。したがって、お釈迦様の命日とは全く関係ない。この日は六曜の中での大凶で、祝事・法事などすべてにうまくいかない大悪日である。現実には仏滅に葬式を出しても一向に気にしない人が多い。考えとして仏滅だから、仏様に関係がありそうなので、葬式を出しても構わないとなったとも考えられる。また、この日は移転・開店も忌み禁じられている。
「大安」大いに安しの意。大安吉日とも称される。万事に用いて吉、成功せざることなき日、婚礼に特によいと解説されている。大変めでたい日で現在では結婚式の日ということになった。
「赤口」陰陽道でいう凶日のひとつ。下手にいじると神様のたたりでもあると考えたのか、この日は、午の刻だけが吉で、朝夕は凶とされ、特に祝い事には大凶とされる。赤から連想される火の用心、大工・板前など刃物を持つ人たちの要注意日とされた。
 ちなみに七曜という暦もある。これは日(太陽)・月、および木星・火星・ 土星・金星・水星の5惑星の毎日の宿度(二十八宿の基準となる距星から赤道に沿って測った経度)を書き記した暦本。一般には余り使われない朝廷用の暦で、平安時代のはじめに空海が持ち帰ったものを、朝廷で毎年編纂される具注暦に付記されたのが起源という。現在ではこの七曜名を使って暦の一週間とする基礎と位置付けられている。(参考文献:現代こよみ読み解き事典)。

(5)陰陽五行思想
 旧暦を語る上で陰陽五行思想と十干十二支との関連は明確にすることが必要である。
 今回はまず陰陽五行思想とはどのようなものか見ることにする。
 中国が発祥の陰陽五行という思想は森羅万象を陰と陽、そして木、火、土、金、水の五気に分類し、その陰陽五気の結合、盛衰によってあらゆる現象を判断し、かつ未来まで予測しようというものだ。それによるとこの五気の並べ方によって仲の良いもの(相性<そうしょう>)と仲の悪いもの(相剋<そうこく>)になると説明されている。木→火→土→金→水→木は、次のような相関関係があるとされる。木が燃えて火を生じ、火は灰となって土を生じ、土の中から金属を生じ、金属には水滴がついて水を生じ、水によって木が生きるという相性があり、一方これに反し木→土→水→火→金→木と並べると、木は土に喰い込み土は堤防となって水流をせき止め、水は火を消し、火は金属を溶かし、金属は斧となって木を切り倒すので、相剋の関係にあるという、まるで風が吹けば桶屋が儲かるという論法である。
 陰陽五行の根本にある思想は太陽の動きに連動している。太陽から地球に到達する光と熱の量は1年を単位として増減する。そこに四季が生じる。この春・夏・秋・冬という四季節は私たちの生活に大きな影響を与えている。この自然の法則は今の世でも変わらない。陰陽五行思想はこの四季の変化を説明するものである。
 陰陽五行説は地球の生い立ちを次のように説明する「この世のはじめ宇宙は未だ混沌たる状態であったが、やがてその混沌の中から軽く澄んで暖かい気、すなわち『陽の気』がまず上昇して『天』となった。それと同時に、重く濁って寒い気、すなわち『陰の気』が下降して『地』になったという」地球創造から始まる。そして五行説へとつながっていく「この陰陽は一年を周期として代わる代わる消長盛衰する。その消長する間に、木火土金水(もっかどごんすい)という五つの活力のある物質を生じる。この五行も陰陽と同様に一年を周期として代わる代わる消長盛衰し、そのため一年の間に春夏秋冬の四季節(四時)の別が生じる」という。
 季節の消長盛衰と五行の関係を具体的に示したのが次の相関関係である。
「春→木の芽が出る(木)、夏→烈火のごとく暑い(火)、秋→金属のように冷え冷えする(金)、冬→氷や雪に閉ざされる(水)。このようにして陰陽は一年を周期として、互いに逆方向に消長する」
 このように循環しながら連綿として交代していく様は、宇宙のあらゆる諸現象は生成消滅するものであるとの考えを産む。これが陰陽五行の思想の根本である。
 これだけ見ると天文学的構造を持っていることが分かる。こうしたものは西洋占星術のルーツにも見られ、どうやら未来を見たいという人の願いを、占いという形で示す方向に変わっていくのは当然の成り行きのように見える。それが多くの迷信を生み出すことになるのもまた当然の成り行きと言えよう。
 かくして、この思想が暦法と結合し、干支との組み合わせによって多くの迷信を生み出すことになる。日本においては奈良時代前期に日本に輸入され内実は迷信的色彩の濃いものであったにも拘らず、次第に日本人の生活様式や物の考え方に強い影響を与えるようになり、江戸時代に至っては、天には五惑星、地には五行、人の心には五常(仁礼信義知)といった精神構造をも形成するまでに、その影響を及ぼしていった。

(6)干支(えと)
 私が小学校に上がったのは終戦の年。一学期を田舎の尋常小学校で過ごした。
 当時は学期ごとに通信簿といって成績表が渡された。成績の高低は甲、乙、丙という表示で評価された。現代でも契約書などに「株式会社A(以下甲という)と株式会社B(以下乙という)は契約を締結した」 という書き方をよく見かけると思う。この分類は暦の十干(じっかん)が基になっている。またよく使われる「君は何どし生まれ」と聞かれ、私の場合「寅年生まれ」と答える。これが十二支である。この十干と十二支を組み合わて干支(えと)になる。年賀状でよく見かける平成二十九年丁酉という表記で、これは「ひのととり」と読み、十干と十二支が組み合わさった暦の例である。今回は十干、十二支について調べてみた。(現代こよみ読み解き事典:柏書房/1993刊)
 十干とは甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の総称で、順に示すと音と訓では「こう/きのえ、おつ/きのと、へい/ひのえ、てい/ひのと、ぼ/つちのえ、き/つちのと、こう/かのえ、しん/かのと、じん/みずのえ、き/みずのと」と読まれる。十干とはもともとは日の順序を示すための符号(数詞)であったと考えられている。一か月を上旬・中旬・下旬とに分けて、一旬に含まれる十日間の一日一日を示すのに、第一日目を甲、第二日目を乙・・・というように符号をつけて数えていくのに使われた。これだと十干はおよそ一か月で三回巡ってくることになり、覚えておくのに都合がよかった。
 十干の起源は中国殷(いん)の時代に遡るという説が有力である。それが周( しゅう、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)の時代に入って、十二支と組み合わされて十干十二支(六十干支)となった。その組み合わせを次に示すと、十干の「甲、丙、戊、庚、壬」と、十二支の「子、寅、辰、午、申、戌」、十干の「乙、丁、己、辛、癸」と、十二支の「丑、卯、巳、未、酉、亥」が組み合わされるため、六十干支となる。順番の最後、癸亥( みずのとい)の次は最初の甲子( きのえね)に戻って繰り返す。このように六十年で干支が一回りするために六十歳になることを還暦を迎えるという。
 途絶えることなく続く日々を、いかに区切って意義付けていくかは、古代中国人にとって大問題であった。月の満ち欠けを30日(または29日)とし、それを3つに分けて10日ごとに旬を置き、さらに10日を十干に配していくといった知恵はお見事というしかない。
 前記の十干の訓読みは「きのえ、きのと、ひのえ、ひのと」というように交互に語尾に「え」と「と」が付く。「えと」という呼び方の語源は、兄(え)と弟(と)に発している。先に記した五行(木、火、土、金、水:もっかどごんすい)と深い関わりがある。陽を兄、陰を弟とし、それぞれに五行を配置し、十干はそれぞれに意味を持つようになる。その関係を次に示す。
 甲は木の兄(きのえ)、乙は木の弟(きのと)、丙は火の兄(ひのえ)、丁は火の弟(ひのと)、戊は土の兄(つちのえ)、己は土の弟(つちのと)、庚は金の兄(かのえ)、辛は金の弟(かのと)、壬は水の兄(みずのえ)、癸は水の弟(みずのと)。

(7)十二支(十二支図)
 十二支(音読みと動物名で表示)とは子(し:鼠)・丑(ちゅう:牛)・寅(いん:虎)・卯(ぼう:兎)・辰(しん:龍)・巳( み:蛇)・午(ご:馬)・未(び:羊)・申(しん:猿)・酉(ゆう:鶏)・戌(じゅつ:犬)・亥(がい:猪)の総称である。
起源は十干より古く、殷の時代には使われていたという。初め、十二支は十二ヶ月の順序を示すための符号(数詞)であった。子は正月、丑は二月・・・というように順繰りにつけていったものと考えられる。この位置付けは時代によって異なり、旧暦では正月が寅の月、二月が卯の月、三月が辰の月・・・の順で十二月が丑の月と定着した。
 暦と日本人(6)でも示したように、十二支は十干と組み合わせて紀年法や記日法に用いられるほか、月名や時刻や方位にも使用されている。
 その用法とはどのようなものなのだろうか、詳しく調べてみる。
 先ず十二支と干支とは異なるもので、干支は十干と十二支を合わせた「十干十二支」の略であって、十二支は古来、「甲子」「丙午」のように、十干と組み合わせて用いられてきた。字音から言えば、十干は「幹」、十二支は「枝」である。十干十二支を合わせたものを干支(「かんし」または「えと」)と呼ぶのが正しい。現代では干支といえば十二支を指すと思われるが、これは十干や五行思想が忘れられた存在になりつつある現象の中で起きた逆転現象とも言えよう。
 子どものころ聞いた怪談話に「草木も眠る『丑三つ時』」とあり、今思い出しても背筋がゾクッとするものだ。この丑三つというのは「昔の時刻で丑(牛)の刻を四つに分けたうちの三番目をいう。 現在の時間では、午前二時から二時半頃にあたりで、化け物や幽霊が出る時刻といわれている」という時間帯となる。
 そこで時計回りでその順番を示すと次のようになる。括弧書きは動物名と時間帯の名称。
 「子(鼠)の刻は23時~1時(夜半)、丑(牛)の刻は1時から3時(鶏鳴)、寅(虎)の刻3時~5時(平旦)、卯(兎)の刻5時~7時(日出)、辰(龍)の刻7時~9時(食時)、巳(蛇)の刻9時~11時(遇中)、午(馬)の刻11時~13時(日中)、未(羊)の刻13時~15時( 日昳:にってつ)、申(猿)の刻15時~17時( 哺時)、酉(鶏)の刻17時~19時(日入)、戌(犬)の刻19時~21時(黄昏)、亥(猪)の刻21時~23時(入定:にゅうじょう)」となっており、意味不明(中国伝来用語)のものもあるが、日出が5時~7時というのはなるほどと思わせる。
 方角を示す組み合わせは次のように使われる。(方位図)「子の方角とは北をさし、卯が東、午が南、酉が西をさす。その中間にあるものを示すと子と卯の間に丑と寅があるから、丑寅の方角といえば、その真中で東北をさし、「艮」の一字を当て『うしとら』 と読ませる。同様に、卯と午の間に辰と巳があるから、たつみといえば東南をさし、「巽」の一字で『たつみ』と読ませる。以下、南西はひつじさるの方向で「坤」の字を当て、北西はいぬいで「乾」の一字を当てる」と以上十二支の使われ方について説明した。「暦と日本人の生活」(完)

 





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