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運ぶ


 改訂版「運ぶ」は2017.2.7から2017.2.18にかけて掲載されたコラムを纏めて編集した。

第1章 車輪
 生活文化の移り変わりを見ていく上で、大きな転換点がある。私はその分かれ目は、明治時代の欧米化が進んだ時期とそれ以前にあると見ている。取り上げる対象は、大体の目安として、明治から平成に至る近現代と江戸時代の近世という区分としたい。
 今回のテーマは「運ぶ」であるが、私が生活してきた時間軸で見ても、大きな変化が見られる。幾つかの例を上げてみよう。
 自分の経験した運搬具は車(車輪)の付いたものが多かったので、そうした運搬具(自転車など)に限定して思い返してみる。
 小どもころの記憶を辿ってみると、はじめて自分で運転したのは三輪車がある。つぎのステップの自転車は乗りこなすまでに何回も転んで怪我をしながら体得したものだ(当時は補助輪等はなかった時代である)。
 今住んでいる場所は登り坂が多く、いつか自転車に乗らなくなり廃棄処分した頃に電動自転車が出始めた。 今では我が家の近くの坂道を前後に子どもを乗せたママチャリが走り回っている。あれは画期的に自転車の性能を向上させ、廃れつつあった自転車を復活させた。
 話を過去に戻し、戦後よく見かけたのは荷車である。動力源が馬だったかロバだったかは確かでないが蒸しパンを売りにやってくる馬車は記憶に強く残っている。牛を動力源としたのは今のバキュムーカーの元祖で 屎尿の桶を運搬する大八車とも呼ばれた牛車が定期的に回ってきたのもよく覚えている。
 家にはリヤカー(金属製のパイプと空気入りタイヤで構成された2輪の荷車で荷物を運ぶために、自転車の後ろにつけたり人がひいたりする二輪車:WIkipedia)があって、それに小包を積んで駅まで、人力で運んだのを覚えている。今でも売られているようで、たまに見かけることがある。
 このように物を運ぶのには昔から車輪(通常2輪一対)が付いた荷車が最も適している。
 現代になると輸送手段はより多様化してきている。2017.2.7

第2章 動力革命
 運輸手段の発展は20世紀から21世紀にかけて目覚ましい進歩を見た。
 ここではエンジンで動く自動車がもたらした生活文化への影響を中心に考察してみた。
 日本では今でこそ世界に名だたる自動車の生産国になり、国の屋台骨を支えているが、これこそまさに米国から伝来したものだ。私の記憶ではシカゴのギャング時代に走り回ったT型フォードの形が自動車の原型だ。
国産車の記憶はそれに似た姿をしたダットサンだった。戦後横浜市は米軍に多くを占領されていたから、ジープや将校の乗るシボレーやキャデラック、デソートなどのアメ車の走り回る姿を見て育ち、自然に名前を覚えるようになった。今でもそのせいか車の車種はすぐ覚えてしまう。
 車はそれだけ戦後文化の象徴であり、個性的な乗り物なのかもしれない。
 話が脱線したが、太いゴムのタイヤを四つ着け、ガソリンを燃料としたエンジンを付けて走る自動車の登場は20世紀の華である。子供の頃にはお大尽の乗り物で、一生自分は車は持たないと思っていたが、30歳代には中古のトヨペットに乗っていた。それもノークラッチのオートマだった。それゆえギヤチェンジの自動車の基本操作をしたのは、運転免許を取った時だけである。今は運転をしないが、ノークラしか運転できない。
 それはさておき、陸上で物を運ぶものと言えば自動車である。その種類たるや数え切れない。
 荷物を運ぶトラック、人を乗せるバスやタクシー、大きなものを運ぶトレーラー、荷物を倉庫内で移動するフォークリフト、建築現場工事に欠かせない重機。緊急用の救急車とあらゆる分野で活躍している。
 いまこの自動車の心臓部のエンジンで革命的変化が進んでいる。それは電気の利用である。これは短距離の物の移動にしか使えなかった電気自動車が一般の大形クラスやバスなどにも使われるようになったことだ。この先進技術がハイブリットカーの出現で、トヨタのプリウスが乗用車の先駆者だ。ガソリンエンジンと電池とのコラボレーション。これぞまさしく日本人特有の応用技術の成果である。街を走る車の半数近くがいまやハイブリット車である。
 次のステップに進めば、水が原料の水素エネルギーの自動車や太陽のエネルギーを使った自動車の登場となるだろう。リチューム電池の改良が進み、家で充電して一日中走り回ることができる電気乗用車の実用化も目前である。これらは公害対策から開発された技術だが、日本の技術者は何か不可能と思われる課題を与えられると、まるでドッグレースのようにガムシャラにゴールを目指す特性を持っているようだ。今後の動向に目が離せない現状だ。
 次章で他の動力源で動く「運ぶ」と、近世以前の「運ぶ」を考察してみたい。2017.2.10

第3章 船
 日本は周囲を海に囲まれた島国で、気候も雨に恵まれ、多くの川も存在する。
 古代より舟は大切な運搬手段であった。ここでは船がどのように発展し今日に至ったかについて考察してみた。
 日本の舟は独自の構造をもっている。古代は丸木舟であるが、基本はここにあり、今のように骨格を先に組みそこに板を張っていくのではなく、単に板を継ぎ合わせて大きくしていくという特色がある。
 これは西洋の船と比べ竜骨や肋材を使わないものだった。「古くは古墳時代の順構造船、平安時代の遣唐使船、諸手船(もろたぶね:古代船の一種で丸木舟に始まり、重木といって板をつづり合わせて大きくした船で、出雲神話に出てくる)、明治時代の打瀬船、丸子船、高瀬舟に至るまで、和船は全てこのような基本構造を持っており、風土や歴史に応じて多種多様な発展を遂げた(wikipedia)」
 日本の地理的条件からいっても、物や人を運ぶのに陸路より川や海を使うことは理に叶っている。陸路では馬では1馬力だからせいぜい米2俵というところが、船それも千石船と呼ばれる船なら1800俵も運べたというから各段の効率である。
 船の推進力と言えば櫂に始まりオールや帆が思い浮かぶが、エンジンでスクリュウー(正式にはスクリュープロペラ というそうだ)を回し推進するというアイデアの起源はアルキメデスにまで遡る。アルキメデスは灌漑用に水を汲み上げたり、船底に溜まった水をくみ出すのにスクリューを使った。それが最初で、 初のスクリュー推進の蒸気船は1839年に建造されたというから実用化にはずいぶん時間がかかったものだ。
 幕末(1860年 )に勝海舟率いる咸臨丸が、初めてアメリカへの航海に出るが、この時乗船した船はオランダで造られた木造船で、写真を見ると三本マストで主に帆走したようだ。蒸気タービンでスクリューで推進することもできる二重構造だったそうだ。
 それが今や5000人もの人を乗せ外洋を航海するクルーザー船などを桟橋で見かける。まるで動く10階建ての巨大なマンションのような姿をしている。
 内燃機関も燃料が石炭から重油、そして無補給で長い航海が可能な燃料として、軍事用ではあるが原子力が使われるようになった。しかし、この燃料は環境上に問題がある。安心・安全な燃料が開発されれば、船の役割はまだまだ続くはずだ。次章で他の運搬手段について考察する。2017.2.14

第4章 飛行機
 このテーマの最終章は飛行機で纏める。
 今の時代では外国に限らず国内でもより早く目的地に着くためには、飛行機という存在を抜きには考えられない。
飛行機による有人動力飛行に世界で初めて成功したのは、アメリカ人ライト兄弟で1903年のことである。この兄弟は世界最先端のグライダーパイロットでもあったというから、グライダーや飛行船などは既に存在していたことになる。
 ライト兄弟が初飛行に成功してから、35年後に世界は戦乱の世へと進む。この時飛行機も軍事目的で飛躍的発展を遂げる。
 より速く、より多くを運ぶという研究が戦争をきっかけとして進歩するというのも皮肉な現象だが、科学技術の発展が戦争という極限状態の中でより高度なものに変わっていくことは、歴史が証明している。
 日本も世界に列して引けを取らない航空技術を持っていた時代がある。この技術は世界大戦ですべて失われた。空を飛ぶという手段を失ったということは、羽根をもぎ取られた鳥のようなもので、それは現代にまで長い影を残している。日本の空を飛ぶ航空機は外国製ばかりというのも寂しい限りだ。
 日本が休んでいる間に、世界の航空事情は民間用にシフトして、ジャンボジェット(B747)のように大型で長距離を飛ぶことができる飛行機が誕生する。1969年のことで、それを契機に各国で 大型輸送機の開発が進む。高速性能を誇ったコンコルドは、ジャンボジェットのライバルと目され、ジャンボジェットはコックピットを2階に持っていき貨物輸送に転用も考えられた時期があったそうだ。ところが華々しく登場したコンコルドは、超音速で飛ぶため、 ソニックブーム(衝撃波)などの環境や、長い滑走路が必要なこと、加えて極端な燃費効率の悪さが原因で、2003年には運航を終了することになる。
 こうした航空業界の激しい技術争いの外で日本の航空機産業はライセンス生産しか許されず、独自の開発は現在進行中の三菱重工のMRJに期待が込められている。
 これは純国産製で初のジェットエンジン搭載の中型機でである。デビューは来年あたりになるだろうが、これが成功すれば、日本の飛行機が世界の空を飛び回ることになり、日本人の職人技は空でも高く評価されることだろうと秘かに期待している。2017.2.18






 



 


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