歌麿美人画の二回目は以下に解説する13点の作品である。
01 六玉川 (むたまがわ )の一つ野田玉川
六玉川というのは、歌枕として有名な「六玉川」になぞらえて、六人の名妓を選んで描いたもので歌麿41歳の作。
02 名所腰掛八景ギヤマン
当時狂歌四天王の一人といわれた銭屋金埓の書をモチーフに描かれたもので、44歳の作。
03 文読む美人
婦女人相十品のうちの一枚。女の人相を十品に描き分けようと思い立って描かれた代表作。
04 美人花合
「五人美人愛嬌競」を改題して再版された作品。情がある美人五人を描いて、それが誰であるか当てるいうクイズのような作品の一つ。
05 袖ヶ浦の亀吉
郵便切手の図案などでも知られるが、絵の中に書かれた「五律から寿」があるが、詳細は文献からは見つからなかった。
06 美人面相十躰之図くし
享和3年に出版された無版元の四つ切判「美人面相拾躰之図」シリーズのうちの一つ。
07 美人面相十躰之図耳かき
同上の一つで、他にも 楊枝を使う女、髪結いなどの作品を見ることができる。
08 難波屋おきた
当時江戸一番の美女と言われた。「 江戸浅草観音随身門わきの水茶屋の看板娘。寛政三美人のひとり。おきたの評判で境内の水茶屋はどこも繁盛したという(kotobank.jp)」。
09 風流六歌撰僧正
六歌仙(ろっかせん)とは、『古今和歌集』の序文に記された六人の代表的な歌人を指していった言葉。僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大友黒主の六人を指す。歌麿はそれをもじって遊女を描いている。この他喜撰法師という絵もある。
10 稀ニ逢恋
歌撰恋之部。色の付いた雲母を背景に刷り入れた美人大首絵。稀にしか逢えない男を思う、女心の切なさのようなものが伝わってくる一枚で、顔の表情や袖にのぞく小さな指先や着物からして、 まだあどけなさが残るい若い娘をよく表現している 。
11 六玉川井出玉川
01で紹介したシリーズの一つ。
12 当時全盛美人揃:瀧川
当時全盛の吉原の遊女を描いたもので、他に花妻、花扇、唐土、花紫、小紫、染之助、若鶴といった作品がある。
13 文を読む女
婦女十相十品の同じ題名の絵が有名だが、それは大年増の遊女をかいたもので、この絵には眉を落としていない美人を描いている。
寛政2年(1790年)か寛政3年(1791年)の頃から描き始めた「婦女人相十品」、「婦人相学十躰」といった「美人大首絵」で特に人気を博した。「青楼仁和嘉女芸者部」のような全身像で精緻な大判のシリーズもあったが、「当時全盛美人揃」、「娘日時計」、「歌撰恋之部」、「北国五色墨」などと優れた大首半身物の美人画を刊行した。全身を描かず、半身あるいは大首絵で表現している。
理想的な女性美を生み出しているが、一方、最も卑近で官能的な写実性をも描き出そうとした。「北国五色墨」の「川岸」、「てっぽう」や「教訓親の目鑑(めがね)」の「ばくれん」、あるいは秘画に見られる肉感の強烈さは遊郭という世界へも歌麿の眼が届いていたことを示している。歌麿は無線摺、朱線、ごますきなどといった版技法を用いて女性の肌の質感、衣裳、身体の質感及び量感表現を工夫していった。歌麿の浮世絵は市井の美人もモデルにするなど「難波屋おきた」のように名前はたちまち江戸中に広まるなどし、歌麿の浮世絵はブロマイドのように江戸の町人に人気があった。
「絶頂期にあった文化元年(1804年)5月、突然の悲劇が歌麿を襲う。豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」(大判三枚続)を描いたことがきっかけとなり、幕府に捕縛され手鎖50日の処分を受けることになる。この刑の後、歌麿は獄舎生活で非常にやつれたとされる。しかし歌麿の人気は却って盛り上がり、版元からは仕事が殺到したという、その過労からか二年後の文化3年(1806年)死去。享年54。墓所は世田谷区烏山の専光寺。法名は秋円了教信士(Wikipedia抜粋)」