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 老いて後に(禅に学ぶ9)


 今回は第二段落を解明する。原文は「万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし」となっている。
 頼住氏によれば「この段落では、最初の段落『諸法』に対し『万法』、『仏法なる時節(A)』 に対し『われにあらざる時節(B)』 とあるようにそれぞれが対となっている」という。
 「万法ともにわれにあらざる」とは、あらゆる存在が「われにあらざる」もの、すなわち「無我」であるという意味である。
 この『無我』とは、自己の内に何か変わらない本質=我という煩悩から解放され、「さとり」を成就しているということである。釈迦以来、仏道修行においては「無我」を体得することが目指された。仏道が目指す「苦からの脱却」は煩悩からの解放である。
 これを踏まえてこの第二段落を読み解くと「総べてのものごとを、"無我の立場"から見る時、迷いもなく、悟りもなく、解脱した人(諸仏)もなく、解脱しない人(衆生)もなく、生もなく、死もないと」ということになる。
 そこで前述の(A)と(B)との対の関係に戻すと、(B)がさとりの時節を表すならば、(A)は人が仏道の教えにふれ、仏道を志すそのきっかけ、つまり発心の時ということになる。
 道元は「現成公案」の巻冒頭で弟子に対して、このように世俗世界から仏道へと入る発心について明確に示しているのである。
 別の解説では"無我の立場"で世界を見ると、客観性や対象性という概念は存在しない。第二者も第三者も存在しない。あるのは第一人称の主体(絶対主体性)のみである。こうした絶対的な内的空間では「我は・・・我自身を見つめている」という関係になる。その視点で修業とは何かと言えば「あらゆるものは「無常」で「無我」であるべきはずだと考え、「無常」「無我」を自ら体得すべく、開悟成道を目指すことだ」と説明している。
 仏教に「分別」という言葉があるが、これは「物事を認識するとき、そこには認識主体と認識される対象が二元的に分節される。さらに対象それ自身も、それ以外のものと対立的に分節される。このようにしてはじめて存在の輪郭が固定的に確定される。このような二元対立的対象認識は、世俗の日常を支える基本的な認識方法である」という意味である。この内容は私のような俗人にはよく分かる説法だ。
 しかし、ひとたび発心すると、この二元対立的、分節的認識方法は覆されることになる。
 前記の「絶対主体性」の世界が道元が唱える基本にある。これに対し「分別」に見るような他己との相対関係で成り立つ世界に対し、これを覆すような「無理筋」とも思える道元の思想は、このことをどう説明するのだろう。
 頼住氏は「その方法として、第一段階として『まよい(迷)』 とは対立的なものとして『さとり(悟)』を立ててその『さとり』 を外部にある目的としてとりあえず目指した上で、第二段階として、その目指したものは実は、本来的基盤に他ならないと自覚するというものである(これを修証一等という)。この論によれば、修行の目的として『さとり』は、実は修行の基盤であったという循環構造に根差している。
 この第二段階を表現している分節が第二段落(B)である。ここでは第一段落(A)の叙述とは反対に、あらゆる分節の無化が語られる。こうした堂々巡りを繰り返すという構造の中で『迷』と『悟』という二元的分節も無化されるのである」と説明している。
 迷路に嵌った感のある説明に終止したが、道元の公案を読み解くということは、こうしたことの繰り返しだということは理解できた。次回は第三段落の解明に取り組むこととする。

 



 


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