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 老いて後に(禅に学ぶ10)


 第二段落(第2文)まで見てきて気が付いたことは、この二つの段落に共通するのは二元対立する言葉の羅列である。すなわち迷悟、修行、生死、諸仏・衆生などである。
 修行を始めるに当たり人は二元対立的、分節的認識方法から出発するしかない。これは道元が語るに「修業に入ったある時点、すなわち「さとり」の瞬間にこのような二元対立的認識方法(俗世の中で不可避的に育んでしまった二元対立的分節)を乗り越えてしまう。これは前回「無化」という表現を用いて説明した。この循環構造は果てることがない。まるでブラックホールにはまり込んで行くように私には思えてくる。
 これまでが前回までのおさらいである。これより第三段落(第3文)に入る。この段落は「仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり」とある。
 先ずこの段落を現代語訳すると「仏道」は「仏としての生き方」、「豊倹」は「豊かと貧しい」、「生仏」は「衆生と仏」、「跳出」は「二元対立を超えている」と解されるので、これをまとめると「 もともと仏道は豊かな立場も、貧しい立場をも超越し捉われないものであるから、生死を解脱したところに生死があり、迷悟を解脱したところに迷悟があり、解脱のあるなしを問題としないところに解脱があるのである」と解釈される。
 次いで第四段落(第4文)の原文「しかもかくのごとくなりといへども,花は愛惜にちり,草は棄嫌におふるのみなり」は現代語訳では「そうであるとはいっても,綺麗な花が風に散ればああ!惜しいと感じるし、雑草が生い茂れれば嫌だと感じるのが自然な感情だ」となる。
 この一文について頼住氏は「落花や草の繁茂に接した時に花と草を分けてそれぞれ価値付けることから、このような好悪の情は生まれる。仏教ではこのような情は執着であり、捨てるべき迷情と解釈されるが、道元は花を愛で草を除いて庭を整えるという、人間の情の中でおのずと湧いてくる好悪を一方的に否定はしない。しかし、それは特定な情であり、違う状況で起きる情は違った見方が出ると理解すべきだと言っている」と道元の思考について説明している。
 次回は第2文節の解明にに移る。原文は以下の通り。
 「自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。迷を大悟するは佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。佛のまさしく佛なるときは、自己は佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく」
英文訳(ネルケ無方:道元を逆輸入する)
Carring yourself forward to practice and actualize the ten thousand things is delusion. Ten thousand things coming forward to practice and actualize you is awaking.
If you awaking completely to your delusion,you are one of the awakend ones. When you are greatly deluded about your awakening,you are one of the suffering beings.
Some awaken out of awakening,others get lost in the midst of delusion.
When the awakened ones are truly awakened,they do not think of themselves as"awakened",Actually that is how they awaken,and how they continue to actualize the awakening.

 



 


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