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 老いて後に(禅に学ぶ11)



 第2文節の第一段落(第1文)「自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり」 現代語訳(頼住氏)を示すと「自己と対象とを固定化して分けておいて、存在の総体を修行し、悟ろうとするのは迷いである。存在の総体の側から自己を修行させ悟らせるというのが「さとり」である。迷いの真の姿を見極めることができるのが諸仏であり、「さとり」をいたずらに求めて迷うのが衆生である。さらに「さとり」を超えて悟っていく人もいれば、迷いに迷いを重ねる人もいるのだ」となる。
 この段落を別の言葉を借りて解釈すると「自己を主として自己の外なる万法を認めようとすることは迷いである。万法の方から自己の存在が実証されることがさとりである」と簡略だが何か引っかかるものが残る。
 そこでまた別の言葉を借りると「さとりとは対照が現れてくるとき、それに対応して明らかになる自己の在り方を見ることで、主から客ではなく、客から主へのように、対象に対して対応して出てくる自己が『主客の関係』 を成立するのだと知れ」とする説である。おぼろげながら論脈が見える。
 次に第二段落(第2文)「迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり」に進んで、諸説を検証する。
 頼住氏によれば「迷を大悟する」は、とりあえずは迷いを離脱し悟りを得るというように読める。これの意味するところは、今、ここに徹する以外にないのだ。それを実現する修行者こそが、真理に目覚めた者という意味で「仏」と呼ばれ得るのである。それ故「仏」とは実は迷いの中にある修行者であるということもできよう」としている。
 他の解釈では「 迷いを大悟したのは諸々の仏であり、悟りに大いに迷っているのが凡夫の人々である。更に悟った上にも悟りを得る人がいる。また迷いに迷いを重ねる人もいる」としている。
 そして、第三段落(第3文)「佛のまさしく佛なるときは、自己は佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく」に進む。
「本当に仏である時には、自分が仏であるというような自覚・自己認識はないというのだ。さとりは衆生の所有物にはならないから、得たという手ごたえはなく、体験ではないから身に覚えはない。さとりは不覚不知である。自覚がないということは、事実がないということとは違う。さとりとは、およそ人間の覚知をこえた事態なのだ」という解釈がある。
 これらをまとめて第2文節を、さらにかみ砕いて示すと「自分の立場から、あれこれ思案して物事の真実を明らかにしようとすのは迷いである。逆に外の世界の方が自分に向かってきて、言わば外界と自分が一体となっていくことが「さとり」だ。悩みの多くは「迷い」が原因となっている。迷うこと自体がよくないことと思い、迷っている自分自身を否定してしまうと悩みはさらに膨らんでいく。これを繰り返しているうちににっちもさっちも行かなくなってくる。迷っている自分に気づき迷いの中に「さとり」の「種(タネ)」が芽生えていると思えば、迷いで自己否定する気持ちは薄らいでくる。さらに悟った上に もう一段の理解をする人もいれば、迷いの中でさらに右往左往している人もいる。仏がまさしく仏であるときは、自分は仏であると意識しないけれど、そうであっても仏のありさまは明らかになっているので、仏の功徳を実践できる人ということになる」とまとめることができる。第三文節に続く。



 


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