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 老いて後に(禅に学ぶ12)



 第3文節に入る前に第2文節の第4段落₍第4文₎を抜かしてしまったので、原文と英語訳を記載し、解説することにする。
 原文「 身心₍しんじん₎を擧₍こ₎して色₍しき₎を見取し、身心を擧して聲しょう〉を聽取するに、したしく會取₍えしゅ・ういしゅ₎すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を證するときは一方はくらし」
 英文訳「When you see forms and listen to sounds with your whole body and mind, you know them intimately. Still this is not like a reflection in a mirror, not is it like the water and the moon.」₍ネルケ無方〉
 現代文訳「身心を傾けて物を見る。あるいは身心をそばよだてて声を聞く。それは自分でもよく解るのであるが、鏡に映すようにはいかない。水に映る月のようにもいかない。一方が分かれば、他方は解らないのである」₍増谷文雄₎
 この解釈に対し「この段落にある「色」とか「声」は認識対象である。この対象物の客観的な認識を得ることの根拠については疑問がある。二元分別的な対応では、一方が明らかにされるときに、もう一方は暗い状態にあるという認識にたつが、真の認識はそのようなものではなくて、鏡に姿が映ったり、水に月影が宿ったりするようなものとして把握されることが必要なのだ」と反証する解説もある。₍森本和夫₎
 この説は要約したものなどで、真意を汲んではいないかもしれないが、どうも専門家でも解釈の仕方が異なるので、さらに難解なパズルを解くような気分に陥ってしまう。
 そこで、英文の無方氏の日本語解釈を示すと「全身全霊で形を見、音を聞いたとき、あなたはそれらを親しく知ることができる。しかし、それは鏡の中の反射や、水と月のようなものではない。一つの側面が実現されることは、もう一つの側面が消えてなくなることを意味する」となっており、増谷氏の解釈に近い。
 インターネットのoto-tokai.net(曹洞宗のホームページ〉 によれば、次のように説明している。
『「かがみにかげをやどすがごとく」ということは普通に考えれば鏡に映す自己と映し出される映像とが、そっくりそのままであるという意味にもとれますが、それとは逆で、鏡に映し出された自己は真実の自己ではなく、修行もそうであってはならない。また、「水の月のごとくにあらず」とは鏡同様、水は水、月は月で水に映った月は本当の月ではなく、水なら水、月なら月というように、そのもの自体に成りきらねばなりません。
 「一方を證するときは一方はくらし」とは一つのことを果たすときには、二心なく自己と対象が一体化し、そのものに成りきることであります。』
 どうやら道元は「自己にとらわれず、虚心に世界に対峙せよ」と語っているようだ。
 こうして考えを纏めていると、ふっと虚心坦懐(きょしんたんかい)という四字熟語が頭に浮かぶ。
 この熟語は「何のわだかまりもない、さっぱりとして平らかな心。何かに捉われることなく、平静な態度で物事に臨む様。虚はつきぬけて空っぽであることで、虚心でわだかまりのない心を意味する。坦懐は大らかであっさりとした気持ち。懐の右の字は目から落ちる涙と衣を示し、涙を衣で隠すという意味を持つ。これに心がついて懐となり、胸中深く包んで大切に暖める気持ちを表す。尚、東洋思想における虚は、無と同様、空っぽの状態ではなく超越した状態と捉えられることが多い」と辞典にある。なお語源は不明で、仏教用語ではなさそうだ。
 次回は第3文節を読み解くことにする。



 


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