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 老いて後に(禅に学ぶ14)


「仏道をならふといふは、自己をならふ也」から始まるこの第三文節には道元流の特徴でもある飛躍がある。これを現代文に訳すと₍森本₎「仏道を習うということは、₍対象化された客観的な認識の獲得といういうようなものでなくて、)まさしく自己を習うことに他ならないのであるが」と()カッコ内の補足をしないと、つながりが見えてこない。次の一文は「自己を習うふというは、自己をわするるなり」。この現代文訳として(森本)「それにしても、その場合、自己というものが実体化されることが絶対にあってはならないとうことが、ここで厳しく説かれている。自己を忘れることが、肝要なのだ」としている。
 解釈の「自己というものが実体化されることが絶対にあってはならない」とはどういうことなのだろうか。他の文献では(山田)この箇所を「ならふべき自己とは、客に対する主ではなく、主客未分のわれ(我)なのである。漠然と自己という固定的な実体があると思う自己中心的な考えは誤りである。自己であることの根拠を、自己も含んだ世界があるがままに『現成₍すべてのものが現れている現実の世界にいる₎ 』しているところに置かねばばらない」と訳している。以上2つの現代訳今一つ理解するまでに至らない。曹洞宗禅センターのホームページでは「自己をならうというのは、自己とは何であるかの究明である。しかし究明するとは、結局自己を忘れることであり、自己の否定でもある。教えを信じて自己を捨てることである。<我>を離れることである。つまり無我になりきることである」としている。これで朧げながら大意は汲み取れる。
 第2文「自己をわするゝといふは、万法(ばんぽう)に証せらるゝなり」の解釈。
現代訳₍森本)「自己をわするるというは」とは自我を捨て去ることではなく、自己と他己との対立を捨て去ることである。「万法(ばんぽう)に証せらるゝなり」とはよろずのことどもに教えられることである。
 続いて第3文「万法に証せらるゝといふは、自己の身心(しんじん)および他己(たこ)の身心をして脱落(とつらく)せしむるなり」の解釈に移る。
現代訳(森本) よろずのことどもに教えられるとは、自他の区別にもこだわるべきではないといことは当然であるので、他己にもこだわらないことになる。ここで特に注目すべきは「脱落」という言葉である。この言葉は読んで字のごとく「抜け落ちる」という意味で、あらゆる実体化された特定なものへの拘泥からの解放、すなわち、自由自在・融通無礙・無束縛といった境地をいう。「身心をして脱落せしむるなり」は、身心脱落とは「俺が俺が」という我見我執の凝り固まった固執的概念を捨て、自他を超越することで、身心一如という体験的世界に没入することである。
 次の第4文「悟迹(ごしやく)の休歇(きうけつ:きゅうかつ)なるあり、休歇なる悟迹を長々出(ちょうちょうしゅつ)ならしむ」の解釈。
現代訳(森本)身心脱落が非実体的悟りであるがゆえに「悟りの痕跡も影を潜めて休止したような様相を示すのであるが、そのことは、悟りの消滅なり無化なりを意味するのではなく、休歇なる悟迹がぐんと抜き出てくるのである」別の現代訳(増谷) 悟りにいたったならば、そこでしばらく休むとよい。だが、やがてまたそこを大きく脱け出ていかなければならない。
 次の第5文「人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際(へんざい)を離却(りきゃく:りきゃ)せり。法すでにおのれに正伝(しょうでん)するとき、すみやかに本文人(ほんぶんにん:ほんぶんじん)なり」
現代訳(増谷)人がはじめて法を求める頃には、はるかに法のありかを離れている。すでに法がまさしく伝えられた時には、たちまち本来の姿の人となる。
 この文節の最後になる第6文「人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすゝむをしるがごとく、身心を乱想して万法を辦肯(はんけん:べんこう)するには、自心自性(じしんじしょう)は常住なるかとあやまる。もし行李(あんり)をしたしくして箇裏(こり)に帰(き)すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし」の解釈。
現代訳(増谷)人が舟に乗って行くとき、眼をめぐらして岸を見れば、岸が移りゆくかにみえる。目を親しく舟につければ、はじめて舟の進むのがわかる。それと同じく、わが身心をあれこれと思いめぐらして、よろずのことどもを解釈しようとする時には、わが心、わが本性は変わらぬものかと思い誤る。もし「目」をその居場所である「舟」にしっかり置くことは、「行李」という日常生活のあり方を万物それぞれのあるべきところである「固裏」に落ち着かせるまでに到れば、よろずのことの我にあらぬ道理が明らかになる。
 再三繰り返すが、道元のものの見方は二律背反するもの、すなわち表裏・静動・善悪・生死・有無・虚実といったものの対比で論理を構成し、そこにものの実態を捉えようと試みる。だがその答えもまた「是非」というループを繰り返す、果てしない労力がそこに注がれる。まだまだこの段階では道元の思想は暗中模索の内にある。
現代訳は『 正法眼蔵1』全注釈:増谷文雄、『正法眼蔵読解1』森本和夫ほかによる。




 


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