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 老いて後に(禅に学ぶ16)


 第4文節第一文「たき木はい(ひ)となる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪(たきぎ)はさきと見取すべからず人の死ぬるのち。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず」
 この一文は真理の探究を刹那₍この一瞬。仏教の時間の概念の1つで、最小単位を表す。念とも〉の面から説いている。
現代語訳₍増谷₎「薪は灰となる。だが、灰はもう一度もとに戻って薪とはなれぬ。それなのに、灰はのち、薪はさきと見るべきではなかろう。知るがよい薪は薪として先があり、後がある。前後はあるけれども、その前後は断ち切れている。灰もまた灰としてあり、後があり先がある。だが、かの薪は灰となったのち、もう一度薪とはならない。それと同じく、人は死せるのち、もう一度生きることはできぬ」
解釈(金子勝俊)「ここでは証(全体理解=悟り)のあり方を時間の面から説いている。薪は燃えると灰になる、そして灰になったら二度と薪 に戻らない。当然の摂理を述べている。その摂理について灰が後、すなわち未来であり、薪が先、すな わち過去であると理解してはいけないとする。薪が時間軸の流れにおいて先にあり灰が後にあるとする 理解を否定している。薪は薪として独立していて、灰と同じ時間軸にないことを示している。薪としての法位すなわち地位/立ち位置において過去と未来が有り、その立ち位置に前後があっても、それらは断絶しているとする。この考え方は理解しやすいとは言えない、しかしながらその地位ないし立ち位置を刹那と考えると理解しやすいであろう。その一刹那において過去があり未来があると説いている。その考え方を生と死に援用する。すなわち薪が灰になったら薪に戻らないように人が死んだら生き還らない、ということをさらに進めて、人の生における一刹那に死はない、また人の死における一刹那において生はないということを説いている」
 その解釈に加えて森本氏は「ここでも比喩から話が始まる。薪と灰との関係が話題にされている。本題はそれに続く生と死の関係であることは明白である」としている。
 第2文は「しかあるを、生(しやう)の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆへ(ゑ)に不生(ふしやう)といふ。死の生(しやう)にならざる、法輪(ほふりん)のさだまれる仏転(ぶつてん)なり。このゆへに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり」
現代語訳(増谷)「それと同じく、人は死せるのち、もう一度生きることはできぬ。だからして、生が死になるといわないのが、仏法の定まれる習いである。このゆえに不生という。死が生にならないとするのも、仏の説法のさだまれる説き方である。このゆえに不滅という。
 生は一時のありようであり、死もまた一時のありようである。たとえば、冬と春とのごとくである。冬が春となるとは思わず、春が夏となるともいわないのである」
解釈(金子勝俊)「生の刹那においては死を対立軸としてもっていない。生は完全な生である。その表現が不生ということであろう。すなわち通常の概念における生というのは死を前提にしている。死に対して、その対立するものとしての生がある。従って、死を前提にしない生は生ではなく、不生となる。すなわち絶対の生である。同様に死は生を前提にしている、生を持たない死は滅ではなく、不滅という、すなわち絶対の滅ということになる。これを四季にあてはめると、冬は冬であり、春は春である。冬における一刹那の中に未来としての春はあるが冬が経過して春になるのではなく、時間軸においては冬と春は切断され、冬は独立した一刹那 における認識として過去と未来を持ち、春は独立して独自に過去と未来をもつということになる。この 考え方の中心はその時間における自己の全面的展開ということであろう」
森本氏は先の解釈に続いて「さらに、季節の推移も、あらためて比喩として提起される。それらの比喩を活用しつつここで確認されることの核心は、人が死んでから後に生となることはなく、死が生となるここともないという絶対の事実である」と述べ、参考に次の一節を上げている「生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり。かるがゆえに、仏法の中には、生すなわち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、又さきあり、のちあり。これによりて、滅すなわち不滅という。以下略」
 第四文節の説明はこれで終わるが、道元は比喩を巧みに使い、同じ意味の表現を言葉を変えて繰り返し使って、意識付けしているように思えてくる。今は学習の段階で自論を述べる知見はないが、全解釈(現在中間地点)がまとまった段階で全文を書き改めながら私見も加える考えである。




 


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