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 老いて後に(禅に学ぶ20)


 第一文「身心(しんじん)に法いまだ参飽(さんぱう)せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり」
・現代文訳(増谷)「いまだ身心に法のゆきわたらぬとき時には、すでに法は満てりと思う。もし法が身心に満ちた時には、どこかまだ足りないように思われる」
・現代文訳 (金子)「真理に目覚めていない凡人に限って、既に究めつくしていると思う一方、真理を充分に究めた人はそ れでもまだ究め足りないと思うものである」
 第二文「たとへば、船にのりて山なき海中にいでゝ四方(よも)をみるに、たゞまろにのみみゆ、さらにことなる相(さう)みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方(けた)なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿(ぐうでん)のごとし、瓔珞(えうらく)のごとし。たゞわがまなこのを(お)よぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり」
・現代文訳(増谷)「たとえば、舟に乗って、陸の見えない海に出で四方を眺めると、ただ丸いばかりで、何処にも違った景色は見えない。だが、大海は丸いわけでもなく、四角いわけでもない。それ以上の海のさまは見えないだけのことでである。海の徳は宮殿のごとく、瓔珞のごとしという。ただ、わが視界のおよぶところが、一応丸く見える見えるのみである」
・現代文訳 (金子)「 例えば、船に乗って大海原に出て、四方を見渡すと水平線 がただ丸く見えるだけで、海の別の姿を見ることはない。しかしこの海は丸いのでも四角いのでもなく、 海のもたらす功徳には計り知れないものがあり、それらは目の前に現れているものだけではない。海と いうものは(餓鬼には膿血が充満する処と見えるであろうし)魚には宮殿に見えるであろう、(人間には 水と見えるが)天人には首飾りにみえるであろうが、ただ自分の見える能力の限りにおいて、海が丸く 見えるだけなのである」
 第三文「かれがごとく、万法もまたしかあり。塵中格外(ぢんちゆうかくぐわい)、おほく様子(やうす)を帯(たい)せりといへども、参学眼力(さんがくげんりき)のを(お)よぶばかりを見取会取(ういしゆ)するなり。万法の家風をきかむには、方円(はうゑん)とみゆるよりほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下(ちよくか)も一滴(てい)もしかあるとしるべし」
・現代文訳(増谷)「よろずのことどももまた同じである。それはこの世の内外にわたり、様々な様相をなしているが、人はその力量・眼力のおよぶかぎりをもって身かつ解するのである。よくよろずのことどもの様を学ぶには、ただ丸い四角いと見えるところのみでなく、見えざる山海のありようのなお際限なく、様々の世界のあることを知らねばならぬ。自己のまわりがそうせあるというのみではない。脚下も一滴の水も、またそうだと知らねばならぬ」
・現代文訳 (金子)「このように森羅万象も同じである。世間、出世間(俗世と離れた世界)とも様々な様相があるはずであるが、人は眼の届く範囲でしか判断できないのである。世界の真理を究めようと 思うなら、丸だとか四角だとかに見える以外に様々な様相が限り無く拡がっているということを知るべ きである。自分の身の周りの様相だけで判断するのではなく、足下にもまた海水の一滴にも世界が広が っていることを知るべきある」
・解釈(森本・金子)「この段落においても比喩が用いられている。舟に乗って海に出たときの有様が、仏法の体得の道に喩えられている。その趣旨は、どのような特定の見方なり特定な立場なりにも固執してはならないということである」ここでの喩えは「大海原を走る船に乗って周りを見て丸い海しかないと思うのは誤りであり、海と云うものの真の様相を知るべきであるとする。舟に乗って外界を見渡すと、立ち位置によって見える対象物に対する判断も変わってくるのである。立ち位置を柔軟に し、対象たる世界をあらゆる方向から観ずることによって見えない世界を見るのである」と述べている。次回は第七文節を学ぶことにする。(2017.7.8)








 


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