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 老いて後に(禅に学ぶ22)


 第一文「うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大(ようだい)のときは使大(しだい)なり。要小(えうせう)のときは使小(しせう)なり。かくのごとくして、頭々に辺際(へんざい)をつくさずといふ事なく、処々に踏飜(たふほん)せずといふことなしといへども、鳥(とり)もしそらをいづればたちまちに死す、魚(うを)もし水をいづればたちまちに死す。以水為命(いすいゐめい)しりぬべし、以空為命(いくうゐめい)しりぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし。修証(しゆしよう)あり、その寿者命者(じゆしやみやうしや)あること、かくのごとし 」

・現代文訳(増谷)「魚が水の中をゆく、どこまで行っても水の際限はない。鳥が空を飛ぶ。どこまで飛んでも空に限りはない。だが、魚も鳥も、いまだかつて水を離れず、空を出ない。ただ大を用いるときは大を使い、小を要するときは小を使う。そのようにして、それぞれどこまでも水をゆき、ところとして飛ばざるはない。鳥がもし空を出ずればたちまちに死に、魚がもし水を出でなばたちどころに死ぬ。水をもって命となし、空をもって命となすとは、そのことである。鳥をもって命となし、魚をもって命となすのである。いや、命をもって鳥となし、命をもって魚となすのであろう。そのほか、いろいろといえようが、われらの修証といい、寿命というも、またそのようなものなどである」

・現代文訳 (インターネット)「魚が水の中を泳いで行くとき、どこまで行っても水の終わりはなく、鳥が空を飛んで行くのに、どこまで行っても空の終わりはない。魚も鳥も昔から水や空を離れるということはない。大海を泳ぐなら大きな力がいるし、金魚鉢の中なら使う力も小さい。このようにして、なんでもその持てる能力があり、どこででもその力を使って生きているわけだが、鳥がもし空から出てしまえば、たちまち死んでしまう。魚がもし水から出てしまえばたちまち死んでしまう。水イコール命。空イコール命。鳥イコール命。魚イコール命。命イコール鳥。命イコール魚。さらに言えば、修行イコール悟りなのである。修行イコール悟りとなっていないとすれば、それは間違った修行をしているからである。生きることのすべてが修行であり、そのまま悟りでなければならない」

解釈(金子)「人は社会生活から逃避出来ない。その社会生活が修行弁道そのものであり、その修証の在り方を魚と鳥を比喩として説いている。魚が魚であるのは水があって魚を現成せしめている。鳥が鳥であるのは空があって初めて現成するのである。水のない所に魚のハタラキはない、空のない所に鳥のハタラキはない。一般には魚は魚として独立して考えることができると思われているであろう。しかし道元禅師の眼にはそのようには映らない。魚は泳いでいて初めて魚である。その魚にとって水は必要不可欠のものであり、魚と分離して考えることのできないものである。もちろん魚を水から揚げることはできる、しかし釣り揚げられた魚は泳いでいた魚とは次元を異にする対象物になる。そこにもとの魚はない。魚は泳いでいて初めて魚であり、水の中にいて初めて魚である。水の中を力の限り泳ぐことによって魚であることを実現しているのである。大海を泳ぐ魚も小池を泳ぐ魚もそれぞれが与えられた世界を力いっぱい泳いでいる。それが以水以命である。魚の命は水にある。魚であることは命の実現である。命があるからこそ魚の実現がある。鳥もまた然りである。大空を飛ぶから鳥なのであり、空の限りを尽くして飛ぶことに鳥としての使命があるのである。以水為命、以下は禅師の好む漢字の置き換えであって、水、空、鳥、魚のそれぞれが命の現成であり、命がそれらの源泉であることを言い尽している。すなわち尽十方界水、尽十方界空、・・・・全てが世界の有り様であり、水の限りを尽くす、空の限りを尽くす、ということが修証として把握される。魚が水の限りを泳ぎ尽くすことが修証の現れとして、命を全うすることにつながるのである。このことは魚、鳥に限ったことではない、人も同様である。人は社会生活を営んでいる、人が社会を離れたら人が人でなくなる。その社会生活を真に実現する術となるのが修業なのである。修業を通して社会生活を営む人たらしめるのであり、修証がすなわち命である。命の限り修行を尽くし、命の限りその命を実修実証していくことが人としての在り方である」

第二文「しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかむと擬する鳥魚あらむは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李(あんり)したがひて現成公案(げんじやうこうあん)す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆへ(ゑ)にかくのごとくあるなり」

・現代文訳(増谷)「それなのに水を極めてのち水を行かんとする魚があり、空を極めてのち空をゆかんとする鳥もあらば、彼らは水にも空にもその道を得ず、その処を得ることはできない。その処を得れば、その行くところのしたがってさとりは顕現する。その道、その処は、大にあらず小にあらず、自らにあらず他にあらず、前よりあるにあらず、いま新たに現ずるにもあらず、おのずからにしてかくのごとくなるのである」

・現代文訳 (インターネット)「それにもかかわらず、水や空の何たるかを知り尽くしてから、水や空を行こうとする鳥や魚があったならば、水にも空にも道を見つけることはできないし、居場所もない。このところをよく納得すれば、今の自分のありようのままで良いことが分かる。この道を得れば、今の自分のようすに手をつける前に、すでに現成している。この仏道、今ここということは、大きいとか小さいとか判断する以前のものであり、自分があってその他のものがあると区別をつける以前のものであり、以前からあると思うようなものではなく、今まさにそうだと思うのでもない。まったく自分の思いというものが介在しないで、ただそうだったのである」

解釈(金子)「水を究めなければ泳がない、空を究めなければ飛ばない、という魚、鳥がいるであろうか。ただ水を眺めているだけの魚は果たして魚と云えるか。空を眺めている鳥を鳥と云えるか、それでは何も得ることはできないのは明らかである。このことが人にとっての坐禅修行にも言えることを禅師は説いている。坐ってみなければ坐禅の意味を知ることはできない、修行してみなければ悟りは決して得られない。坐禅修行によって安住の地を見、道を得、そして修証一如であることを体得する、それが現成公案なのである。真実の自己が実現するのである。坐禅修行に差別、すなわち大小、長短などの区別は一切ない、主観実観の別もない、過去からとか、現在においてとかいう時間的配慮も一切ないのである」(2017.7.18)

 









 


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