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 老いて後に(禅に学ぶ24)


 現成公案の解釈 もいよいよ最終章に入り、私の文節では 第八文節になる。訳文には参照した文献の著者名(敬称略)を記すことにする。

原文第一文「しかあるがごとく、人もし仏道を修証(しゆしよう)するに、得一法(とくいつぽふ)、通一法(つういつぽふ)なり、遇一行(ぐういちぎやう)、修一行(しゆいちぎやう)なり」

現代文訳(増谷)「それと同じく、人の仏道をおさめんとするにも、一法を得れば一法に通ずるのであり、一行にあえば一行を修するのである」

現代訳(金子)「このように弁道実践し真理を探究し一つの真理に至れば、それは一つの真理と一体になったのであり、一つの行を実践したならば、それは一つの行を修め行と一つになったのである」

原文第二文「これにところあり みち通達(つうだつ)せるによりて、しらるゝきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽(きうじん)と同生(どうしやう)し、同参(どうさん)するゆへにしかあるなり」

現代文訳(増谷)「そこにもまた処があり、道が通じているのであるが、それがはっきりとは判らない。それは
仏法を究めるとともに生じ、ともに関わるからなのである」

現代訳(金子)「進むべき真理への道が真っ直ぐつながっているにもかかわらずその世界がはっきりと見えないのは、真理というものが(対象物として現われることなく)真理探求という修行の中にしか現われていないために、どうしてもはっきりしたものには見えないのである」

原文第三文 「得処(とくしよ)かならず自己の知見(ちけん)となりて、慮知(りよち)にしられむずるとならふことなかれ。証究(しようきう)すみやかに現成(げんじやう)すといへども、密有(みつう)かならずしも現成(げんじやう)にあらず、見成これ何必(かひつ)なり」

現代文訳(増谷)「自己の得たるところは、必ずしも自己の知見となって自覚せられるものと思ってはならぬ。悟はすみやかに実現しても、わが内なる所有はかならずしも明らかではない。それを明らかにすることはかならずしも必要ではないのである」

現代訳(金子)「究められた真理というものを自分の知恵として理知的に表現できるというものではない。真理は修行と共に自身に現われるものであるが、自己に親密なる真理まことは必ずしも見てとれるほどに現れているものではなく、見てとれる事実は必ずしも真理の実現ではないのである」

今まで24回にわたり「現成公案」について、見返すとかなり乱脈に原文とその現代訳を参考文献から示してきた。これからはその学習成果を自らの表現で「現成公案の思想的考察」として纏める作業に入ることにする。しばらくの猶予をいただき慎重にリメイク版を公開することにする。(2017.8.3)


 









 


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