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 老いて後に(禅に学ぶ1)


 禅とは何かということについて、まず鈴木大拙氏の著作からその研究に見られる「禅とは何か」を窺い知ることができるフレーズを今風に意訳して、基本的な知識としてまとめてみる。(禅学入門)
 鈴木大拙氏「禅学入門」
 禅は心の全部であるから、禅のうちには知的要素があるとも言えるが、知的分析の方法によっては何ら我々に教えるところはない。また禅は何ら規定された教理といったものは持っていない。この意味で禅は無秩序であるとも言える。
 それ 故、禅は聖典とか独断的教義とかいうものはなく、あるいはまた禅の意義が徹底されるような象徴的な様式もないのである。では、禅は何を教えるかと問われたら、私はこのように答える「禅は何も教えない」と。たとえ禅にある教訓が何であっても、それは皆人々自身の心から出るものであって、禅は単に道を示すに過ぎない。
 禅は哲学でも宗教でもない。禅の本質は洞察によって心の本性に達し、心そのものを見出し、自ら心の主となるところにある。禅を修行するということは、実在の理由を達観するために人の心眼を開くところにある。  禅においては「三界( 無色界・色界・欲界)に何物もなし。何れに心を求めんとするか。四大( 地・水・火・風)は畢竟空なり。しかして真理は汝の目前に展開せり。この真理以上に何物もなし」とある。
 禅の何たるかを示す象徴的表現として、こう述べている「禅は大海である。空気である。山である。雷と稲妻である。春の花。夏の熱。冬の雪である。否、それ以上である。すなわち人である。あるいは禅に儀式があり、因習があり、長い歴史の間に積まれてきた付加物がある。しかし禅の中心事実は活きている。禅独特の長所はそこにあるのだ。すなわち我々はなお何物にも偏しなくてこの究極の事実のうちに直視することができるのである。すなわち禅は日常生活そのものの事実を認めることによって最も平凡な、そして最も平穏な、普通人の生活裡に現れているからである」更に加えて「禅は文字も、言葉も、また経典をも用いない。ただ直截に真そのものの核心を掴み、以てそこに安住の地を求めることを勧める」
 以上が鈴木大拙氏による「禅とは何か」の問に対する答えである。かなり噛み砕いているが、すんなり理解するには、さらに精読する必要を感じつつ纏めてみた。なお、この書は当初英文で発行され、それを日本文に直し加筆したものである。その内容も氏独特の解釈に基づいており、必ずしもこれ以降に示すであろう「道元禅」と軌を一にするものではない。
 次回は「禅学2」として、頼住光子氏の「禅の思想」から抜粋して紹介する。


 


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