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 老いて後に(禅に学ぶ2)


禅を学ぶに際して、もう一つ解説を頼住光子氏の「道元の思想」から抜粋して紹介する。
『仏教でいう無常とは一言でいうと、この世の一切のものは生成し、とどまるところなく移り変わり永遠不変ではないということである。仏教ではこのようにすべてが無常であるにもかかわらず、何かに執着してそれを我が物と考えることを否定している。これは先に述べたように、自己も対象もすべて移り変わるものであり、固定的同一性を保持することなどできないと考え、固定的同一性に執着することは徒に人の苦しみを増すばかりとされている。「老病死」という事実が端的に示すように、その同一性はそもそも成立不可能なものであると仏教では捉える。本来成立するはずのないものを、あたかも成立するかのように前提して成り立っているのが、仏教から見た世俗世界である。
 仏教の「無常説」において特に強調される「空」の思想は、無常説をさらに深化したものといえる。無常説は人間誰しも直面せざるを得ない死や老い、別離といった現象から出発し、人間のみならず全世界の全事物事象が無常であるという理にまで高められたものであった。そのことを踏まえてさらに、ではなぜ全事物事象が無常であるかという問いから出発するのが「空」の思想なのである。「空」とは、ものごとには何ら本質すなわち不変の本性などないという「無自性」であり、この世にあるすべてのものはさまざまな「因(直接原因)」と「縁(間接原因)」とが結びつくことによって成り立つ「縁起」である。つまり「空」とは「虚無」などでなく縁起ー無自性ー空という関係が成立していることである。
 この一切が「空」であるという仏教の根本教説(大乗仏教)は、日本の文化的伝統においては、世の中の虚しさ、人生のはかなさを教えるものと受け取られた。そこでは厭世的孤独感、生存の不安感、虚無的気分という意味においてニヒリズム的な色彩を帯びていると言うことができる。
 しかし、これは派生的な現象であり、仏教の無常観や「空」の理論は、あくまでも世界の実相についての冷徹な認識であり、また実践(修行)の根拠に他ならない。仏教の無常観は、われわれ現代人の心の奥底に巣食うニヒリズムに対して、何らかの示唆を与えることも可能なのではないか。われわれが道元そして仏教の世界認識として期待できるのは、まさにこの点ではないかと考える』
 以上2回にわたり紹介した鈴木大拙氏と頼住光子氏の「禅の考え方」を踏まえて、次の段階でさらに他の道元研究者の文献も参考にして、道元の書籍「正法眼蔵」と「現成公案」を中心に、その思想を汲み取る言葉を選んで紹介していくつもりである。


 


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