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 老いて後に(禅に学ぶ3)


 禅は難解だといわれるのは、禅問答にみるように、確かに訳が分からないところがあるからだ。
 仏教でいえば「南無阿弥陀仏」の浄土宗・浄土真宗「南無妙法蓮華経」の日蓮宗のように教典があり、それを唱えれば、 人は極楽浄土で救われるとする浄土宗。現世で救われる日蓮宗というように、読経するだけで救済されるといった明快さがある。これらの宗教が広く大衆に受け入れられたのはその簡便さにある。
 一方「禅」は思想的要素が強く、前に述べたように禅には念仏はない。本稿の参照文献の著者頼住氏によれば「禅では不立文字(ふりゅうもじ)といって経典などの文字にかかわってはならないというスローガンを掲げている。その代わりに膨大な量の禅語録が編み出されている」としている。それを読むと、まさに禅問答そのもので、型破りな言葉が並ぶ。例えば「言い得ないものを語る」という一見矛盾している言葉が飛び出してくる。一般常識では測れないところが理解しがたい。
 「指月のたとえ」を例に引くと、言葉と真理との関係が少し見えてくる。同氏によれば『月は真理を意味しており、誰も月そのものに触れることはできないけれども、様々な方向から月を指すことはできる。月をさす指とは言葉を表している。月の方向を指していれば、どのような指し方をしようと、それは正当性を持つ。つまり、真理を指し示す言葉はただ一つではなく様々なことがあり得る。そこでは逆説、反語、象徴、比喩などの用語が駆使され、一旦固定化した表現は常に覆される。ある時、ある場所、ある関係においては確かに真理をさし示す言葉であっても、それが固定化してしまうならば、真理と直接的な関係は失われ、ただの形骸化した表現に成り下がってしまうのである。このように禅僧の言葉とは常識を超えた意味のよくわからないものとして受け取られている。しかし、奇異で了解不能に見えるかと言って、彼ら禅僧の言葉が恣意的なでたらめというわけではない。一見奇異な言葉の背後にあってそれを支えているのは「語り得ないものを語る」という真理と言語の逆説的な関係に対する彼らなりの透徹した理解なのである』と解説している。
 常識にとらわれている私には、このような超越した真理への追求の仕方は理解し難いところが未だに残る。さらなる理解を求めて、もうしばらく模索の状態を続けるとしよう。
 現実の世界、それも現在進行形のアメリカ合衆国大統領トランプ氏は、前大統領オバマ氏の政策をことごとく否定し、理解しがたい方向に導こうとしている。禅とはかけ離れた世界で、今「真実とは何か。何が善で何が悪か」が問われている。


 


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